第十二章 身代わりの姫君 3
驢馬を引くヨハンと連れ立って石垣のあいだの階段を降りると、大きな樫の木の根元にマンフレートと灰色狼がいた。
「おや《レナーテ》、ヴェールを被るのかい?」
マンフレートは勿論アマーリエの正体を知っている。
アマーリエが言葉を発していいものか迷っていると、ヨハンが代わりに応えてくれた。
「へえ祭司長さま、博士は同門の姫君の罪を悔いて改悛の行の最中なのだそうで」
「なるほど。それは良い心がけだ。来なさい。ちょうど出立の準備が整うころだろう」
マンフレートが灰色狼を伴って樫の大樹の幹を廻る。
耕地のあいだをまっすぐに伸びる幅2丈〈約6m〉の路の向こうの柊の生垣にもうアーチ状の入り口が開いている。
その前に、足と鼻の白いがっしりしたこげ茶色の荷馬が三頭と、襟元に茶色い毛皮の縁取りのついた赤葡萄酒色のマントを羽織った大柄な中年男と、一目で護衛の傭兵と分かる揃いの青い短マント姿の三人の男たちがいた。
灰色ローブのこの谷の修練士たちが、馬の鞍の左右に二つずつ、平たい木の箱を括りつけて荒縄で縛っている。
「彼はグスタフ殿と言って、上流域のレーゲンスハイムから薬種と蜜蝋燭を仕入れにきた商人でね。冬至月初めの大市に合わせてこれからゼントファーレンへ向かうそうだ。遍歴修行の最中とはいえ、あなたみたいな若い女性が護衛もつれずに旅をするのは少々不自然だ。護衛代をいくらか負担して彼らと同行したほうが怪しまれないだろう」
生垣のほうへと向かいながら、マンフレートがさりげない口調で説明してくれる。
「その費用はおいくらほどかかりますので?」と、ヨハンが用心深く訊ねる。
「レーゲンスハイムからゼントファーレンまで往復で護衛を三人雇うとなったら、相場の日当が一人あたりハルトシュタット銀貨一枚として、往復一二日間で三十六枚ってところかな? ここからゼントファーレンまで片道半分の同行なら、そうだな――四分の一払えば十分じゃないかな?」
「なかなかかかりますねえ!」
「とりあえず我々のほうで建て替えておくよ」
アマーリエは心のメモに《護衛代金・ハルトシュタット銀貨九枚》と書き留め、ついでに、あの忘れがたい地性触手の襲撃このかた、《赤翼隊》十名を雇用し続けている――と、アマーリエは考えている――ために発生しつつある総費用がいくらになるのかを考えて内心で蒼褪めていた。
耕地のあいだの路はさほど長くない。
レナーテに扮したアマーリエはすぐに生垣の前へと至った。
「あ、レナーテさま!」
灰色ローブの若い修練士たちが人懐っこく声をかけてくるが、アマーリエが喪服みたいな黒いヴェールですっぽり顔を覆っているのを見ると、気づかわしそうに眉をよせた。
「……御身内で何かご不幸が?」
「いや、実はね――」
マンフレートが手早く改悛の行について説明し、興味深そうに聞き入っているレーゲンスハイムの商人グスタフに、ゼントファーレンまで《レナーテ》を同行させて欲しいと頼んだ。
そうした道連れは旅の商人にとってはさして珍しいことではない。
護衛費用の四分の一の支払いを申し出られたグスタフは快く同行を許してくれた。
旅路は順調だった。
その日の夜はゼント渓谷の谷口で野宿した一行は、翌日の正午ごろ、南部平原へと流れ出して急速に川幅を広げるゼント川が大きく南東へと曲がる地点へと出た。
なだからな丘陵地帯の真ん中を流れる川の幅は優に七〇丈〈約210m〉を超えるだろう。
滔々と南へ流れて、六〇歩里〈約90㎞〉先で、帝国領の南限をなすエルデの大河と交わる川だ。
石畳の街道を進む一行からは左手を流れる、その青く滔々たる川の行く手に、五つの緩やかなアーチを連ねた長い石造りの橋が架かっていた。
「おおヨハン、見てごらん、ゼント大橋だよ!」
同行者のグスタフが商人らしい愛想の良さで驢馬を引くヨハンに話しかける。
橋の向こうには、胸壁を備えた一対の円塔に護られた門が見え、その左右から、これもぎざぎざとした胸壁をいただく石壁が伸びている。
南部地方きっての大交易都市、帝国自由自治都市ゼントファーレンの西門だ。
橋へと近づくにつれて、よく整えられた街道には、だんだんと人通りが増えていった。
服装からして殆どが近隣に住む農民たちだろう。
たいていが驢馬や牛に荷車を引かせて、酒樽やチーズや林檎や布や青々とした葉を茂らせる大きな蕪なんかを運んできている。
何しろ人が多いから、服喪中みたいなローブ姿のアマーリエにも大した注目は集まらなかった。皆自分の仕事で大忙しなのだ。
「グスタフの旦那、随分賑やかでございますねえ」
と、ヨハンが所在なく応じる。
「冬至月初めの大市が始まっているからね」と、商人が満足そうに言う。「なあヨハン、お前さんの女主人は市内に入ったらやっぱり施療院の神殿にお泊りになるのかい?」
さりげない世間話みたいな口調で訊いてくる。
その言葉を耳にするなり、アマーリエは心臓が口から飛び出しそうになった。
大抵の大都市の例にもれず、ゼントファーレンには癒しの女神聖ニーファの神殿とそれに附属する施療院がある。遍歴修行中の若い祭司――治癒医師は基本的に在俗祭司である――は、普通なら当然その神殿に泊まる。
しかし、今回ばかりはそうはいかない。
レナーテの話では、彼女はまだ一度もゼントファーレンの神殿に滞在したことはなというが、結構な有名人のレナーテのこと、どこでどう顔が知られているか分かったものではない。それに、万が一にも、等級《七》の癒しの力を実演してみろとでも言われたら一発で正体が露見してしまう。
――どうしましょう。何て答えたら怪しまれないかしら?
アマーリエが口実に窮して俯いていると、何を思ったか、グスタフが妙に気の毒そうな顔で頷いてきた。
「ああ、ああ、ご事情は分かりますよ。例のあの毒薬使いの姫君とやらのせいで、女祭司さまはゼントファーレンでは肩身が狭いんでしょう? あそこの神殿の祭司長は男ですものね」
「そ、そ、そうなんですよ!」と、同じく困っていたヨハンが飛びつくように応える。「旦那はえらくお詳しいですねえ」
「なに、エルンハイムの聖ニーファ男子修練院と女子修練院の不仲は、われわれ薬種商人のあいだでも常識みたいなものだよ」
グスタフはごく当然のことのように言った。
アマーリエは内心で驚愕していた。
七歳から十七歳まで、まさにそのエルンハイム聖ニーファ女子修練院で過ごしてきたというのに、そんな話は今まで全く知らなかったのだ。




