第十一章 翼持つ使者 2
「強心剤だね?」と、レナーテが即座に応じ、聖ニーファ紋様の金刺繍のある青い絹帯に吊るした鍵束を外してアマーリエに投げ渡した。「私の部屋の薬箱にあるよ! すぐに調合して! 一番大きい鍵が部屋の、一番小さいのが薬箱の!」
「承知いたしました! お部屋はどちらですの!」
「エルマさま、案内してやって!」
「え、ええ!」
いつのまにか出てきていた緑のローブのエルマ・クルム祭司長が、優美な貌に微かな驚愕を浮かべて応え、
「姫君、ついでおいでなさい!」
と、アマーリエを促し、向かって左手の二階建ての館の入り口へと走っていった。
こちらの館の扉は施錠されていた。
エルマが自分の鍵束から鍵を探して開ける。
石敷きの四角い広間の両側に廊下が伸びて、右側にずらりと木製の扉が並んでいる。
「レナーテの宿坊は左翼の突き当りです! 薬以外で調合に必要なものは?」
「小型の鍋と杓子、それにゴブレットをお願いいたします!」
エルマが右翼の廊下を奥へと走ってゆく。
アマーリエは反対側の突き当りまで走って、ドアの前で荒い息を吐きながら、冷たい鍵束から一番大きな鍵を捜し出した。
ドアを開けると、内部はいかにも神殿らしい、白漆喰塗りの壁をそなえた簡素な寝室だった。右手に寝台があり、正面の格子窓の下に衣装櫃がある。
その上に懐かしい品物があった。
アマーリエの両腕では抱えきれないほど大きい白木の薬箱だ。
角を真鍮の帯金で補強して、平たい蓋の上部に、聖ニーファの印である《匙と五弁花》の紋章と、箱の持ち主であるレナーテ・シュタインベルガーの名前が浮き彫りになっている。
エルンハイムの工房で作られた規格品である同型の薬箱を、アマーリエも勿論所有していた。
――わたくしの薬箱は今どこにあるのかしら? 裁判の前に司法官たちが押収してしまったあの箱は、もう壊されてしまったのかしら……?
二年前、血のにじむような努力を重ねて治癒薬師の資格を取得したときに注文した薬箱のことを思うと、今さらながら、胸がぎゅっと締め付けられるような悲しみが湧き上がってきた。
眦が熱を帯びて、瞬きをしたら涙が零れそうになる。
アマーリエは慌てて首を横に振った。
――ダメダメ、何を考えているの、アマーリエ・フォン・ヴェルン! 今やるべきことをやりなさい! 癒しを必要とする人がすぐ外にいるのだから!
すべての感傷をひとまず頭の外に振り払い、一番小さくキラキラと輝く真鍮製の鍵で薬箱を開ける。
中はよく整理されていた。
天才少女レナーテのことだから好き勝手に自分の好みの分類をしているかと密かに危惧していたのだが、意外なことに、きっちりと規定通りの分類である。
アマーリエは難なく必要な薬種の包を捜し出すと、ベッドの脇にあった大きなバスケットにすべて詰め込んで館の外へと急いだ。
外は完全に暗かった。
左手にみえる二つの篝火が照らす火明かりのなかで、レナーテが、仰向けに横たえられたマンフレートの胸部を渾身の力を籠めて繰り返し押しているのが見える。
フレデリカの姿は見えなかった。
篝火のあいだを抜けて暖炉の広間へ入るなり、青いローブの老人がつかみかからんばかりの勢いで訊ねてきた。
「姫君、何が起きたのだ? マンフレートはどうしたのだ?!」
「祭司長さま、お話はあとで! 暖炉を貸してください!」
「そうですよラインハルト、治癒者たちの邪魔をなさらないで!」と、いつのまにか追いついてきていたクルム祭司長が後ろから怒鳴って、鍋や杓子を抱え、緑のローブの裾を翻しながら炉の傍へ走っていった。「姫君、お願いしますよ!」
「どうぞ任せてください!」
アマーリエは肩で息をしながら答え、呼吸が落ち着くのを待ってから、バスケットを下ろし、石床に膝をついて、ジギタリスを主体とした強心剤の調合にかかった。
毒性の強いジギタリスを使うために無資格者の調合が禁じられている薬だが、手順そのものはさして難しくはない。
アマーリエはすぐさま調合を終えると、小さな鍋のなかでふつふつと煮え立つ薬湯を柄杓で掬って厚手の銀のゴブレットに注いで、再び外の広場へと戻った。祭司長二人が後ろから追いかけてくる。
「博士、強心剤です!」
「ちょうどよかった! 今どうにか心拍が戻り始めたところだよ!」
レナーテが嬉しそうに白い歯を見せて笑い、マンフレートの上体を苦心して抱き起こした。
アマーリエはその傍に膝をつき、マンフレートの鼻をつまむと、微かに開いた唇のあいだに薬湯を注ぎこんだ。
薬湯の殆どは零れてしまったものの、多少なりとも口に入ったのか、仰のけられた首の喉骨がごくりと動くのが分かった。
レナーテがはーっと安堵のため息をつく。
ややあって、マンフレートがうう、と微かな呻きを漏らした。
ちょうどそのとき、柊の生垣のアーチを抜けてフレデリカが戻ってきた。
両手に大きな猛禽の躯を抱えている。




