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第十章 谷の神殿 3

 アーチを抜けると、幅2(ルーデ)〈約6m〉ほどの土の路の左右によく耕された黒土の耕地が広がっていた。灰色のローブの若そうな男女――おそらくはこの神殿で修行する修練士だろう――が、二、三人、笊を手にして何かの種を蒔いている。

 手前の一人がこちらに気付き、人懐っこい声で呼びかけてくる。

「レナーテさま、お客人ですか――?」

「ああ、水辺の事故で怪我してたんだよ! もうすっかり大丈夫!」

 レナーテがごくごく親しげに声を返している。

 その様に、アマーリエの胸はまた微かに痛んだ。



 アマーリエがレナーテと初めて会ったのは十歳のときだ。

 十一歳で聖ニーファ修練院に入ってきたレナーテは、文字通り天才少女だった。だれからも「フォン・ヴェルンの姫君」と呼ばれて子犬か子ウサギみたいに甘やかされていたアマーリエと違って、年長の相手にも臆せず意見し、侮辱されたら怒り、至る所で口論をした挙句に、一週間後にはすっかりと共同体になじんでいた――


 路の先の辻の真ん中に、ほれぼれするほど枝ぶりのよい大きな樫の木が生えていた。

 根元に黒い斑のあるピンク色の豚どもが五頭と、地面にじかに胡坐をかき、胸の前で手を組み合わせて瞑想する男が一人いた。

 茶色っぽい髪と茶色っぽい髭のどうということのない中年男だ

 右半分が白く左半分が赤いローブ姿で朱色の帯を結んでいる。

 狩人神ウルーに仕える祭司だ。

「おーいマンフリートどの――」

 レナーテが気さくに呼びかけながら近寄る。

 先導する灰色狼が尾を振りながら駆け寄っても、豚どもは微塵も怯えずにドングリを漁り続けている。

 狼が男の掌を黒っぽい舌でベロっと舐める。

 途端、その手から淡い銀色の光が放たれたかと思うと、男の全身をヴェールのように包み込み、そのまま染みこむように消えた。

「はああ――」

 マンフレートがため息をつきながら目を開け、アマーリエを認めると、目尻に皴をよせて笑いかけてきた。

「ようこそフォン・ヴェルンの姫君! 私はマンフレートという。見ての通り、狩人神ウルーに仕える祭司の長だ」

「初めまして祭司長さま」と、アマーリエは最高級の礼をとった。「公権に追われる身をあなたがたの聖域にお迎えくださったこと、改めて感謝いたします」

「迎えるかどうかはまだ分からないよ。もう二人の祭司長の心次第だ」と、マンフレートは立ち上がりながら微苦笑した。「狩人神の立場はどこでだって低い。私の立場は門衛兼護衛兼家畜番みたいなものだ。暗黒時代の中央地方(ミッテルラント)みたいに《獣憑き》と忌まれないだけましとしなければな。レナーテどの、姫君の来訪を奥へ伝えてくれるかな?」

「いいよ。―-じゃ、またねフォン・ヴェルンの姫君。そっちの隊長殿(シェフィン)は、念のためよく休んでおくんだよ?」

 レナーテがひらひらと手を振って、大樹の反対側へと向かっていった。

 そちらには低い石垣があって、狭い切れ目から険しい石段が始まっていた。上に茂った柊の生垣の向こうに木造の館の屋根や尖塔が見える。



「さて、それじゃ、あなたがたは果樹園の番小屋ででも休んでいるといい」

 マンフレートが灰色狼の頭に掌をあて、「わが守護たる聖ウルーよ、お力をくだされたまえ」と小声で呟く。

 すると、掌の下からポウっと淡い銀色の光が発され、狼の両耳のあいだに吸い込まれるように消えた。

「こちらですよ」 

 マンフレートが一同を促して右手へ向かい、耕地と石垣のあいだを伸びる細い土のままの路を歩いてゆく。灰色狼はと見れば、大樹の下に悠々と腹ばいになって、五頭の豚と目の前の耕地の若者たちを見守るかのように頭をもちあげていた。きっと今もマンフレートと五感を分け合っているのだ――と、アマーリエは察した。

「……そこいら中目と耳だらけって感じだな」と、後ろを来るレオンが独り言みたいに呟いた。


 路はじき右手へと曲がって、半ば葉を落とした林檎の木々の生える林のなかへと入っていった。いくらもいかないうちに左手に丸太小屋があった。

「おーいゼペット、この人たちに何か食べ物をやって、湯を沸かして沐浴させてやってくれ。たぶんそのうち奥へと上がることになるだろうから」

「はいはい祭司長さま、仰せの通りに」

 小屋から出てきたのは、片目のつぶれて背中の曲がった灰色のローブの老人だった。杖に縋りつくようにヨタヨタと歩いてくる。

「そのう――祭司長さま?」と、それまでずっと物言わぬ家畜の一種みたいに着いてきていた老ヨハンが、自分よりたっぷり二十歳は年長そうに見える老人とマンフレートをちらちら見比べながら言う。

「なんだい?」

 マンフレートは羊にいきなり口をきかれた羊飼いみたいな顔で答えた。

「その、なんですか、雑用でしたらわたくしもお手伝いいたしますんで」

「ああ、それはありがとう?」マンフレートは戸惑いぎみに応じ、小首を傾げてフレデリカに訊ねた。「ええと、隊長殿(シェフィン)?」

「はい」

「彼もあなたの部下なの?」

「いや、彼はヨハンといって――」

 フレデリカはそこで言葉に詰まった。

「わたくしはミッテンヴェルンの御者でございますよ」と、ヨハン自身が答えた。「いろいろあって姫さまの御供をしていますので。――祭司長さま、こんな年寄の言うことには何の重みもありますまいが、姫さまは毒殺なんぞなさるお方じゃありません。それだけは間違いありませんからね?」

 老ヨハンが狼に立ち向かう子ウサギみたいにプルプル震えながら言い募る。

 アマーリエはその姿に涙ぐみたくなった。

 無条件に信じてくれる人は院長先生だけではない。

 こんな近くにずっといたのだ。そう思うと心の底から勇気がわいてきた。



 ――惨めになんてなっている場合じゃないわ。巻き込んでしまったヨハンのためにも、隊長殿(シェフィン)たちのためにも、わたくしは何としても冤罪を晴らして名誉を取り戻さなければならない。



 丸太小屋のなかは林檎の樽で一杯だった。

 入口の右手が土間になっていて、そこに竈が設けられている。

「そいじゃヨハンさん、井戸は裏ですから水をお願いいたします」と、ゼペット爺さんが頭をさげると、ヨハンを制してレオンが立ち上がった。

「力仕事は若人の役どころだろ。おい来い最年少」

「はーい」

 アルベリッヒが嫌そうに立ち上がる。

 土間に一山積まれている薪は勿論林檎の枝だった。

 ゼペットが焔を熾すと、林檎の木特有の芳しい薫りが暖気とともに室内に立ち込めた。アマーリエたちが胡桃入りのライ麦パンと林檎酒を振る舞われているあいだに、レオンとアルベリッヒがせっせと水を運んできた。ゼペット爺さんが竈の上でせっせと湯を沸かしては盥に注いでゆく。

「お姫さまがた、湯あみの支度が調いましたよう」

 ゼペットの朧で大雑把な目にはアマーリエもフレデリカも大体同じように見えているようだった。

 男たちを一端外に出し、熱い湯に麻布を浸して、土間で久々に体を拭き清める。

 フレデリカの細くも逞しい真っ白な背中には矢傷の痕跡さえなかった。


 湯あみを終えて、籐編みの平たい籠に用意されていた簡素だか肌触りのよい白麻のローブに袖を通し、もこもこした灰色のウールの靴下と同じ素材のケープを羽織る。

 そうして、すっかりさっぱりとして、ぬくぬくとした室内で二杯目の林檎酒を啜っていたとき、外から扉が叩かれてマンフレートが入ってきた。

「姫君、寛がれましたか? 早速ですが、聖ニネヴェと聖セヴの祭司長があなたに会いたいと申しております。隊長殿もどうぞご一緒に」

「われわれはお留守番で?」と、レオンがすごむように訊ねる。

 マンフレートは笑顔で頷いた。「ロッティがご一緒しますよ」



 ロッティとはマンフレートのあの灰色狼の名前だった。

 呼ばれるなりのっそり入ってきて、ゼペット爺さんを認めるとウルルっと嬉しそうに喉を鳴らして、竈の傍に長々と腹ばいになってしまう。

 傭兵たちの見張りはこの獣が務めるのだろう。

 アマーリエとフレデリカは、マンフレートに連れられて番小屋を出た。

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