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第十章 谷の神殿 1

 声は若い女のものだった。

 皮肉っぽい嗤いを含んでいる。

 集中を破られたアマーリエが苛立ち交じりに顔を向けると、すぐ目の前に、縁にも裾にも青いパイピングを施した白いローブ姿の若い女が立っていた。後に灰色狼もいる。


 顎のあたりで短く切りそろえた黒髪と浅く日に焼けた小麦色の膚。

 頬骨が高く、鼻梁の太い、どことなく南方の血を感じさせる二十歳前後の女だ。夜空のような暗青色の眸には攻撃的な知性の煌めきがあり、鮮やかに赤い唇には皮肉っぽい笑みがある。

 美醜のほどは好みによりけりだろうが、この表情の持ち主を「世間知らずの姫君」と評する者だけは断じていないだろう。


 腰には聖ニーファの印である《匙と五弁花》の刺繍を施した青い絹の帯を巻き、胸元には同じ意匠の金のメダルをかけている。

 アマーリエはそのメダルの持ち主の名をよくよく知っていた。



「――ドクトル・レナーテ・シュタインベルガー……?」


 呆気にとられたまま呼ぶなり、相手はニヤッと嗤った。

「覚えていただけて光栄の至りで! ところでボーッとしている暇あるの? その人危ないんじゃないの?」


「あ、はい! ひどい怪我です。博士(ドクトル)シュタインベルガー、お願いいたします。隊長殿(シェフィン)を癒してくださいませ!」

 アマーリエがすべての躊躇いを忘れ果てて縋るように頼むなり、レナーテはつまらなそうにフンと鼻を鳴らした。

「相変わらずだね、そのお姫さま口調。その隊長殿(シェフィン)とやら、もしかして恋人なの?」

 面白そうに笑いながら足を進めたレナーテは、マントの上にうつぶせに横たわるフレデリカの姿を見とめるなりハッと乾いた声で嗤った。

「なんだ、女なの? さすがにフォン・ヴェルンの姫君だね! ――見せて。ああ、なんだ、大したことないよ。そこの髭男!」

「お、俺か?」と、レオンがたじたじと答える。

 レナーテは遠慮容赦なく苛立たしげに舌打ちをした。

「他に髭男が誰かいるっての? この隊長殿(シェフィン)とやらの矢、さっさと引き抜いてやってよ」

「い、いいのか?」

「いいに決まっているだろ。誰に物言っているのさ?」

レオンが露わにアマーリエに目を向けてくる。

 いいのか?――と、視線だけで訊ねているようだ。


 アマーリエは微かな口惜しさともに頷いた。

「どうか博士(ドクトル)の仰せの通りに。――その方はエルンハイムの(ハイリヒ)ニーファ女子修練院三百年の歴史の中で、最も若く帝国認定上級治癒医師の資格を取得した、百年に一人の天才と謡われる治癒者どのです」


「百年は過小評価だね。三百年に一人だ。先例がないんだから」

 レナーテはうつぶせに横たわるフレデリカの傍に両膝をついて、改めてレオンを見あげた。

「ほら、さっさと抜いて」

「お、おう」

 レオンがもう一度、心許なげにアマーリエを一瞥してから、羽矢を握ってぐっと力を籠める。

 背から矢が引き抜かれた瞬間、鮮血が噴き出すのよりも速く、傷の上にかざされたレナーテの掌の下から眩い黄金色の光が迸った。



 ――ああ……



 アマーリエは思わず見惚れた。


 それは純粋の癒しの光――アマーリエがどれだけ修練を重ねてもついに手に入らなかった最上級の聖ニーファの加護の賜物(ゲシェンク)の証の光だった。


「はいおしまい。立てる? 隊長殿とやら?」

 レナーテが落としたペンを拾い上げでもしたかのような無造作さで立ち上がりながら訊ねる。

 フレデリカがうつ伏せのままウウ、と微かに呻いた。

 レオンの貌がぱっと輝く。

「フレデリカ! おいどうだ、どこか痛むか?」


「馬鹿レオン、人前では隊長殿(シェフィン)って呼べって……」


 フレデリカが、今夢から覚めたばかりのようにむにゃむにゃした口調で言いながら体を起こそうとする。レオンが慌てて太い腕でその背中を支えた。

「――隊長殿(シェフィン)!」

「えええ、今ので治ったんですか!?」

 アルベリッヒとヨハンが驚愕も露わに駆け寄ってくる。

 レナーテが皮肉っぽく眉をあげ、紅薔薇みたいな口元に微かな笑いを浮かべて頷く。

「細工は流々仕上げをご覧じろってね! 行くよフォン・ヴェルンの姫君。そっちの隊長殿も。そういえば名前は?」


「ゼントファーレンのフレデリカと申します。癒しの技に感謝いたします。御身の守護たる聖ニーファの恵みが末永く注がれますように」

 フレデリカがレオンに支えながら恭しく礼をする。

 レナーテは無造作に頷いて踵を返すと、大きな灰色狼と並んで坂路の口へと歩き始めた。

 青いパイピングを施した白いローブの裾がひらりと翻る。



「なんとまあ、大した御方ですねえ――」

 老ヨハンが感に堪え切れないように呟いた。

 その声を聞いた瞬間、アマーリエは激しい口惜しさを感じた。


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