第九章 渡し場の狼 4
「狼!?」
アルベリッヒがぎょっとしたように叫ぶ。
アマーリエも思わず振り返った。
その瞬間、先ほど上りかけていた坂路の口から、大きな灰色の狼がのっそりと現れた。
「ひ、ひ、ひいい……」
ヨハンががくがく震えながらその場にへたりこんでしまう。
アルベリッヒがごくりと息を飲み、ひどく静かな足取りで、ヨハンと獣のあいだへと進み出ていった。
さして大きからぬ背中が強張り切っている。
灰色狼は動かなかった。
明るく澄んだ琥珀色の眸だけを動かして水辺を一瞥する。
アマーリエはハッとした。
獣のその眸の動きに、なにか非常に理性的な知能を感じたのだ。
――もしかして、この獣は……
狩人神ウルーの加護持ちに使役されているのかもしれない。
狩人神の加護を受ける者は鳥獣と五感を共有することができる。
この灰色狼の眸の向こうには誰か人間がいるのかもしれない。
そうと推測したところで、アマーリエは立ち上がった。
「お姫さま? おい、何するつもりだ?」
レオンが狼狽えた声をあげる。
アマーリエは構わず、落ち着いた足取りでアルベリッヒの前へと進み出た。
「アマーリエ?」と、アルベリッヒが慌てる。「何してるんだよ、後ろにいてってば!」
「大丈夫ですわアルベリッヒ。どう見たって、これは普通の狼ではありません」と、アマーリエは泣き出しそうな弟妹を宥める姉の気持ちで答え、改めて灰色狼へと向き直った。
「すべての獣の創造者たる鹿角もつ御方に護られる方よ、わたくしはアマーリエ・フォン・ヴェルンと申します。ミッテンヴェルンの司法官の裁きによりいわれのない冤罪をかけられて刑を受けることとなったため、正しい裁きを求めて、帝国都市ランサウの地方法院へ向かう途上です。
連れの者たちはわたくしの護衛で、みな信頼できる者たちです。ご覧の通り、護衛の一人が負傷しております。どうかひとときの休息と支援を。わが守護たる癒しのニーファの名にかけて、嘘偽りのないことを誓いますゆえ」
修練院で教えられた礼儀作法通りの言葉遣いで告げ、片足を引いて頭を低める最上級の礼の姿勢をとる。
灰色狼は――おそらくは狼の眸を借りている誰かは――琥珀色の眸でまっすぐにアマーリエを見つめていたが、じきにウルルっと低く唸るなり、まるで「解った」とでも言うようにふさふさとした尾を大きく振ると、跳びすさぶように坂道を駆け上っていった。
獣の豊かな灰色の尾が灌木の陰へと消えた途端、アマーリエは全身からどっと力が抜けるのを感じた。
思ったよりもずっと緊張していたらしい。
「――すごいねアマーリエ」
背後からアルベリッヒが心底感嘆したように言う。
「本当に。たまげましたよ」と、老ヨハンも立ち上がりながら嘆じる。
「挨拶をしただけですわ」と、アマーリエは照れ隠しにわざと無愛想に言ってから、負傷者の存在をはっと思い出した。
「それより隊長殿! 待ってくださいね、すぐに癒しますから」
慌てて駆け寄ってみれば、フレデリカはレオンの腕のなかで気を失っていた。
薄い瞼を閉じた小さな顔が完全に蒼褪めている。
その顔を目にした途端、アマーリエはあらゆる恐怖を忘れた。
ここに負傷者がいるのだ。
治癒者のするべきことはひとつだ。
「レオンどの、地面にマントを敷いて、隊長殿のお体をうつぶせに横たえてください」
「お、おう」
レオンが言われるままに従う。
うつぶせにされたフレデリカの背から羽矢が突き出している。
胸の側まで貫通はしていないが、だいぶ深く刺さっているようだ。
「抜いたほうがいいのか?」
「いえ、抜いたら一気に出血します。まず、わたくしがある程度力を高めて、ある程度の速さで癒しを施せるようにしないと」
「……時間がかかるのか?」
「多少」
答えながらアマーリエは自分がもどかしくてならなかった。
――わたくしにもっと力があれば。力さえあれば、こんな傷は瞬時に癒せるはずなのに……
浮かんできてしまった雑念を必死で振り払い、跪き、目を閉じて、胸の前で両手を組み合わせて連祷の姿勢に入る。聖ニーファへの祈りをひたすらに捧げながら、全身を廻る加護の力を掌へと集めてゆく。
五十回の連祷の一度目が終わって、二度目の半ばに差し掛かったとき、アルベリッヒが狼狽えた声をあげた。
「え、あれ、また狼が来たよ!」
「おい馬鹿坊主、お姫さまの集中を乱すんじゃねえ!」
レオンが慌てて咎める。
アマーリエの集中は破られなかった。
目を閉じたままひたすら祈祷を続けていると、不意に頭上から呆れたような笑いが響いた。
「熱心だね、フォン・ヴェルンの姫君! だけど等級《三》じゃこの傷は無理だよ。それくらい見極められないの?」




