第四章 生ける死者の沼地 3
「――それじゃ、皆くれぐれも気をつけろよ?」と、フレデリカが子供を手放す親みたいに繰り返し念を押す。「エーミール、違約金の契約は無理して値切らなくていいからな? フリッツ、ランドルフ、くれぐれも喧嘩をするなよ? ハインツ、留守中の指揮官はお前だ。みなを頼んだよ」
「頼まれましたとも隊長殿」と、ハインツが苦笑する。「大丈夫ですから早いところ発ってください。陽が落ちる前には《生ける死者の沼地》から充分は離れなけりゃいけないんでしょ?」
「ああ、そうだった。急がなけりゃな」と、フレデリカが照れくさそうに応じる。
「じゃあ皆気をつけろよ。ゼントファーレンで会おう」
「ええ隊長殿、ゼントファーレンで」
十人の傭兵たちが小さな円陣を組み、みなで拳を突き合わせて挨拶をする。
そのあとで一行は二手に分かれた。
ハインツ率いる七名は、一部崩壊している古街道をそのまま西へ進んで予定通りウーゼル城へ。
フレデリカ率いる五名は間道捜しにかかる。
「さっき通ったばかりだから沼までの道は確実ですよーー」と、先導するアルベリッヒが得意そうに言い、教師の反応を確かめる子供みたいにちらっとフレデリカを見やって訊ねる。
「ええと、森の中で旧い道を見つけるときは陽樹を辿るんですよね?」
「ご名答。アルターヴァルト南部なら、見つけるべきはまずは白樺だな」
アルターヴァルト大森林南東部の低地は主に山毛欅の木に覆われている。
冬を控えて葉を落とした木々の枝が頭上で組み合わさる様が神殿の円蓋の梁のようだ。そのあいだから澄んだ灰色の冷たい光が射してくる。
どこかで啄木鳥が幹を叩いていた。
厚く朽ち葉の積もったフカフカとした地面を踏みながら歩くうちに、不意に木々の連なりが途切れたかと思うと、目の前に思いもかけないほど広大な沼地がひろがっていた。
「うわあ」
アマーリエは思わず声を漏らした。
「広いんですね。それに随分明るい」
本当に沼地は広かった。
対岸まではざっと五〇丈〈約150m〉、横は一〇〇丈はありそうだ。
《生ける死者の沼地》という名から、もっとおどろおどろしい小さな暗い沼を想像していたのに、枯れた葦を茂らせた洲をあちこちに散らした沼地の水面は、澄んでこそいなかったが、いっそ美しいほど鮮やかな濃い碧緑色で、淡い銀色の雲の切れ間から射す陽光を浴びて小波を煌めかせているのだった。
「この底にたんまりと骸骨が沈んでいるんだよ!」と、アマーリエの骸骨愛好を知らないレオンが、娘を怖がらせる人の悪い父親みたいに目を剥いて告げる。
アマーリエは目を輝かせた。
「本当ですか? 覗いたら見えるかしら?」
と、水辺に足を進めようとする。
そのフードのつけ根をフレデリカが慌てて後ろからつかむ。
「おいこらアマーリエ、湿地帯だぞ? 不用意にちょろちょろするな! ここからは私が先頭を行く。アルベリッヒは念のためアマーリエと手をつないでおけ。レオン、お前がしんがりだ。ヨハンどのはお一人で歩けるか? 無理なら誰かに背負わせるが」
「あ、いや、そんな、隊長殿、もったいないことでございます!」と、御者のヨハンがわたわたする。
「誰かって俺しかいねえでしょうがよ」と、黒髭のレオンが小声でぼやいた。
フレデリカを先頭にした一同は沼地のほとりをそろそろと慎重に北へと進んだ。
距離こそさほどではないものの、なにしろ湿地のことで、迂闊に足を踏み出せば、思いもかけないところに深みがあって、足首のあたりまで冷たい泥に沈み込んでしまう。
アマーリエが履いているのは、アルベリッヒから借りた足に合わない古い革のブーツだ。
大して進まないうちに、そのブーツのつま先に詰めた藁までぐっしょりと濡れて、足の指が冷たさで感覚を失ってきた。
「がんばれよお姫さま。あと少しだからな?」
アマーリエの右手を握って前を行くアルベリッヒが、時折振り返っては声をかけてくれる。
「大丈夫ですわ」と、アマーリエは強がった。「それから、わたくしはアマーリエです」
「あ、うん。俺はアルベリッヒだよ?」
「それは知っています」
「ははははは」と、しんがりを来るレオンが、まるで城下町を気楽に散策でもしているみたいな陽気な声で笑った。「鈍いなアルベリッヒ、お姫さまは名前で呼んでくれって仰せなんだよ!」
「え、そうなの?」
「それ以外の何だっていうんでございます」と、これも老御者が息も絶え絶えに口を挟んでくる。
先頭のフレデリカが声を立てて笑った。
背の後ろから射していた陽が左手に移り、五人がみな全身泥まみれになるころ、沼地の面からうっすらと霧が立ち昇りはじめた。
「まずいな」と、フレデリカが呟き、背後を省みて指示する。「みな急ぐぞ! この霧は濃くなりそうだ」
「隊長殿、風で払えないんですか?」
「沼地中の霧はさすがに無理だよ。それに《生ける死者》が出現するのは冥府の女神ナーウードの領域だ。他の神の力を使うと変に刺激しかねない」
フレデリカの言葉通り、歩くうちに霧はみるみる濃くなっていった。
まるで腐ったミルクを充たした桶の底を歩いているかのようだ。
アマーリエはもう全身が氷のように冷たかった。
じきに、ようやく、常に軟らかく水っぽかった地面が硬くなる地点へと出た。
霧のためによく分からないが、前方に向かって緩やかな登坂になっているようだ。霧を透かして、地面に幾筋も巨大な蛇のような何かがうねっているように見えてアマーリエはぞっとした。
しかし、よく見ればそれらはみな静止していた。
どうやら斜面に幾筋もの木の根が浮き出しているらしい。




