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第四章 生ける死者の沼地 2

「ゼント渓谷までの距離は、道さえ見つかれば三〇歩里(ミリア)〈約45㎞〉といったところだろう」と、フレデリカが革の背嚢に油紙に包んだベーコンの塊を収めながら言う。「徒歩で二日の行程だが、何があるか分からないし、念のため二倍の支度をしておこう」

 きっと遅れの不安要素の第一はわたくしの存在なのでしょうね――と、アマーリエは内心で情けなく思った。


 着替えと荷造りを終えて番小屋を出ると外は空寒かった。

「着なさいアマーリエ」と、フレデリカがごわごわした褐色の毛織のマントを投げ渡してくれる。フード付きで首元に紐がついていた。

 まだ午前中ではあるものの、だいぶ陽の位置が高い。

 短い影を伸ばす右手の木々の向こうから饐えた吐瀉物を思わせる強烈な腐臭が漂ってくる。

 昨夜の方陣聖域(カトル・サンクテ)のあたりだ。


 臭いの源へ向かうと、赤黒く変色した地性触手(テラ・テンタケル)の死骸が、石畳が剥がれて半壊した路上から外に向けて放射状に広がっていた。

 路の向こうには落とされて壊れた箱馬車の車体が横倒しになっている。

 馬車の右手に伸びるひときわ太い知性触手(テンタ・サピエンテ)の開口部のすぐ先に、数枚のマントと何着かのシャツと、これもおそらくは《生ける死者の沼地》から掘り出してきたのだろう大量の白骨が、これから焚火をする前の薪の小山みたいに積み上げられていた。

 その周りで八人の人物が忙しく立ち働いていた。


 アマーリエが今着ているのと同じ褐色の毛織マント姿の小柄な人物は御者のヨハンだろう。

 でっぷり肥った大柄な黒髭のレオンはマントを着ていない。

 その他の六人はみな揃いの深緑の短マント姿だ。

 レオンと、短躯だが筋骨隆々としたフリッツの二人が、赤黒い巨大なソーセージを思わせる半透明の革袋をそれぞれ肩に担いでいる。デロっとした質感の革袋が肩を挟んで曲がる様が大きな芋虫のようだ。中に液体が充たされているらしい。


「待たせたな皆。準備は万端か?」

隊長殿(シェフィン)、見ての通りでさあ」と、レオンが得意そうに笑う。

「あとは頭蓋骨と髪だけですよ」と、痩せ男ハインツが言い添える。

 フレデリカが首を傾げ、腰の短刀を抜きながら、何となく言いづらそうに訊ねてきた。


「なあアマーリエ、少しだけ髪を切ってもらえるかな? あんたの髪の色はとても美しいし長くて目立つから、やはり多少はあったほうがいいと思うんだ。切るのは肩のあたりまででいいから」

「かまいませんわ隊長殿(シェフィン)」と、アマーリエができるだけ気楽な口調を拵えて応えようとしたが、いざ、黒髪のひと房を掴んで、手渡された短刀の刃を当てるなり、じわっと目頭が熱くなってしまった。


「――大丈夫かよお姫さま?」と、衣服の小山の上に五つの頭蓋骨を配しながら、意外にもエーミールが訊ねてきた。

 アマーリエはぐすっと鼻を鳴らしてから、口元を引き締めて頷いた。

「なんでもありませんわ。髪なんてすぐ伸びますもの」

 刃にぐっと力を入れて、艶やかで冷たい黒髪の束をひと房ずつ切っていく。



 すべて切り終えて衣服の小山の上にそっと乗せると、アルベリッヒとフレデリカが深緑のマントを脱いでその上に重ねた。

「さて、準備完了ですかね。それじゃそろそろ――」と、レオンが赤黒い半透明の革袋の口栓に手を伸ばす。

 その栓はコルクではなく、淡く黄みがかった滑らかなエナメル質の光沢を帯びていた。


 竜牙の栓だ、とアマーリエは気づいた。

 焔にも酸にも傷まない地上最強の物質を栓にしているとうことは、あの革袋の中身は、地性触手(テラ・テンタケル)の毒腺から絞り出した酸性粘液なのだろう。



 ――今からあれを衣服の上にかけて、触手が未消化の部分を吐き戻したように見せかけるんだ……



 傭兵たちの偽装工作は思ったよりもずっと手が込んでいた。

 修練院で初めての実験を目にしたときのようにわくわくと見守っていたとき、

「レオン、フリッツ、ちょっと待ってくれ」

 と、フレデリカが制止するなり、よく目立つ赤い羽根飾りをつけた深緑の帽子を脱いで、無造作な手つきで衣服の小山の上に乗せた。

「やっぱりこいつも追加しておこう。《赤翼(ローテ・フリューゲル)》のフレデリカが死んだっていうのに羽がないんじゃ様にならない」


「……いいんですか隊長殿(シェフィン)?」と、ハインツが傷ましそうに訊ねる。

 フレデリカは眉をあげ、何を思ったか手を伸ばして、肩までのざんばら髪になってしまっているアマーリエの頭を撫でながら答えた。

「いいんだよ。帽子はまた買える。さ、二人とも、準備完了だ。さっさとやってくれ!」

「は、はい隊長殿」

「みんな離れて目を背けとけよ!」

 レオンとフリッツが慌てた様子で答え、赤黒い革袋の栓を抜き、中の液体を一気に衣服の小山へと放水した。

 途端、ジュッと音があがったかと思うと、小山がすさまじい勢いでどす黒く爛れ、異臭を放つ白い煙がシュウシュウと立ち上った。

「お姫さま、目を抑えときなよ」と、アルベリッヒが囁く。

 アマーリエは言われるままに目元に右手を当ててきつく瞼を閉ざした。

 あまりにも強烈な異臭に鼻の粘膜がひりひりとした。

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