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8 瑞穂の木

 翌日も会社を休んだ。その翌日も、そのまた次の日も会社を休み、クスノキのもとに通った。瑞穂の木は、いつでもぼくを迎えいれてくれた。


 11月にはいり、朝晩はだいぶ冷えこむようになった。会社から電話があったけれど無視した。現実に引き戻されるのが嫌だった。


 寒くなって、なにより心配なのは瑞穂(みずほ)の体調だ。瑞穂は温室にこもりがちで、寒さにはとても弱い。冬場は風邪をひきやすく、すぐこじらせる。去年は40度の熱をだしてうなっていた。


 夕方から冷たい雨がふりだした。ぼくは瑞穂の様子を見に、傘を手にマンションを出た。雨風のせいで、丘に上がる林道にはたくさんの葉が落ちていた。瑞穂がいっそう心配になった。


 瑞穂の木は、広い原っぱのまんなかにぽつんと寂しそうに立っていた。


 ぼくは傘をさしたまま、屋根のように広がる葉むらの下に入った。彼女の暗褐色の樹皮に手のひらをそえると、しっとりと冷たい。


「瑞穂、寒くはない?」


 生い茂る葉のあいだから雨がこぼれている。突風に傘が吹きとんだ。揺れる葉むらから、どっと雨粒が降りかかる。雨あしはいっそう強くなったようだ。


 ぼくはびっしょり濡れたまま、瑞穂の木を見上げていた。


「なんだか寂しそうだね。いつだって会いに来てるじゃないか。ぼくには瑞穂しかいない。2人は婚約しているんだから。ほら――」


 首のチェーンを引っぱりだした。そこに1組のリングがきらめく。ぼくは婚約指輪を握りしめ、クスノキをふりあおいだ。胸に熱いものがこみあげてきた。


「……瑞穂」


「植草さん!」悲鳴のような声が聞こえた。


 すぐうしろにスーツ姿の女が傘をさして立っていた。もう一方の手に、ぼくの傘を持ち、あっけにとられた顔つきをしている。


「植草さん、どうしちゃったんですか」


 彼女は誰だったっけ?


 頬骨のはったシャープな顔立ち、切れ長の目に、眉毛を細く引いてある。なんだか怒っているように見えた。茶色がかった髪を背中までたらし、広い額をむきだしにしている。その額には見覚えがある。


「わたしです。高月。た・か・つ・き」


 そうだ、思い出した。高月(みお)。21歳で、今年の新入社員だ。


 高月が傘を差しだした。


「本当にどうしちゃったんですか。わたしのこと忘れてしまったみたい」


「そういえば、同じ課にいたよね。覚えているよ」


「植草さんの向かいの席です」


「そうだった。ほら、机に旧式の大きなパソコンが置いてあるよね。それで、向かいの高月の席がよく見えないんだ」


「植草さん、なにを言ってるんですか。やっぱり、どこかおかしいですよ。さっきからこの木にむかって、1人でつぶやいていたし、幹に手をそえて、瑞穂お――なんて呼びかけてましたよ」


「うん、瑞穂は、ぼくの婚約者なんだ」


「そうらしいですね。彼女はもう死んじゃったんでしょ。2週間も会社を休んで、毎日、この原っぱに通っていたんですか」


「ここは、ぼくと瑞穂の思い出の場所なんだ。はじめて2人が出会ったのがこの木の下で、熱中症で倒れたぼくを介抱してくれたのが瑞穂なんだ」


「2人のなりそめは聞いていません。つまり、この木といっしょに過ごすために会社を休んでいるってわけですか」


「じつは、そうなんだ」


「まるでこの木と結婚しているみたい」


 ――結婚。ぼくはクスノキを見上げた。いつでも緑を絶やさないあの葉むらのなかに瑞穂はいる。手のなかの婚約指輪をぎゅっと握りしめた。


「ぼくも、なんだかそんな気がしてきた」


「わかりました。だったら、結婚させてあげます」


「えっ……」ぼくは高月の顔を見かえした。


「わたしが、植草さんとこの木を結婚させてあげると言ったんです」


 高月の細い眉が意地悪げにつりあがった。


「なんだか怒っているみたい」


「わたしはこういう顔なんです」


 足早に歩きさろうとした高月がふいに振り向いた。


「わたしがここに来たのは、係長に様子を見て来いって言われたからです。わたしが植草さんを心配しているだなんて思わないでください」


 高月が立ちさったあと、ぼくは雨に濡れながらマンションに帰った。高月がぼくの傘を持って行ってしまったんだ。



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