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7 思い出と暮す

 ぼくは静枝さんにいとま告げ、瑞穂の実家を出た。テンコの鉢植えは、静枝さんが手提げのビニール袋に入れてくれた。1週間休んで、明日から会社に出勤だ。ぼくは重い足どりで自宅マンションに向かった。


 駅前商店街を抜け、高台に建つマンションへの坂道を上がる。坂のガードレールの向こうに、雲ひとつない秋晴れの空が広がっている。その下は、緑のゆたかな森林公園になっていた。


 ぼくの自宅は築10年の1LKだ。六畳のフローリングのガラス戸には、カーテンが引かれたままだった。あわい光りのなか、座卓やテレビ、オーディオなどが寂しげにうかびあがっている。


 ぼくはベランダのカーテンを開けはなった。原色植物図鑑をおさめた日当たりのいい本棚の上に、サボテンの鉢植えを置いた。テンコに水をあげないと。10月後半のいまの季節、水やりは週に一度くらいだ。


 水道水をあたえると、テンコはぷっくりふくれあがったように見えた。棘についた水滴が、西日をあびてきらきら輝いている。


 ぼくはふいに力が抜け、本棚の前にしゃがみこんでしまった。明日からの出勤がおっくうでたまらない。サボテンをずっと眺めつづけていたい。このまま腰に根が生え、サボテンになれたらいい……。


 朝の日差しがまぶしくて目が覚めた。夕食のあと、サボテンを眺めながら眠ってしまったようだ。膝をかかえた背中がこわばり、体のふしぶしが痛い。


 本棚の上のテンコは相変わらず元気そうだ。


 午前7時過ぎになっていた。会社に行く支度をしないと。ぼくはのろのろと立ち上がり、洗面所にむかった。


 水を浴びて顔を上げると、ぼくのさえない表情が鏡のなかにあった。前髪から水滴をしたたらせ、目のまわりにくまができ、細いあごに不精髭が生えている。新しい1日が始まった実感がわかなかった。


 ぼくはマンションを出て、最寄り駅に向かう。園芸用品の商社までは、電車で1時間ほどだ。出勤すれば、いつもどおりの業務がまっている。そうして、日常の歯車に巻きこまれていくんだ。


 ぼくは駅の北口から入り、改札口の前を通りすぎて、南口に抜けた。足はしぜんに、駅の反対側に広がる林道に向かっていた。


 朝の日差しのなか、丘をめぐる坂道を上がる。雑木林は黄色くそまりはじめ、道のいたるところにどんぐりが散らばっている。ぼくの感傷をおきざりにして、季節は確実に移りかわりつつあった。


 ぼくは丘の上の原っぱに出た。そのどまんなかに、1本の枝を幹の途中からさしのべる、巨大なクスノキがそびえていた。


 ぼくと瑞穂が初めて出会った場所だ。クスノキの根もとから見上げると、こんもり茂った葉むらのあいだに光りがあふれていた。


 ぼくたちはデートのあとかならずこのクスノキをおとずれていた。デートの場所そのものがここだったときもある。ベビーカーのテンコもいっしょだった。


 あの頃とまったく変わっていない。いまでもクスノキは、あふれる緑におおわれ、大きなシルエットを草原に落としている。


 瑞穂と2人で過ごした1年3か月、常緑のクスノキは、その姿を変えることなく立っていた。いまでもそうだ。ただ――瑞穂がいないだけ。


 クスノキは季節の移り変わりを超越し、つややかな緑を枝いっぱいに茂らせている。まるでその空間だけ時間が止まっているようだ。瑞穂との思い出も、このクスノキの下でなら永遠にとどめておける。


 会社に行くのはやめた。ぼくは瑞穂との思い出の下で生きていこうと決めた。


 クスノキの枝葉がざわざわと風に揺れている。


 やっぱりこの大樹は、なにか思い悩んでいるように見えた。


 ぼくは首にかけていたチェーンを外した。そこに、ぼくと瑞穂の婚約指輪が通っている。ぼくはそれをぎゅっと握りしめた。


「……瑞穂」クスノキの暗褐色の幹に手をそえてささやいた。


 そのころから、ぼくは少しずつおかしくなっていたんだ。



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