2 瑞穂とテンコ
人生最良のとき。ぼく――植草卓巳にとってこの一瞬がそうだった。プロポーズをするなら、このクスノキの下と最初から決めていた。
橋本瑞穂のきゃしゃな体を離すと、ほんのり蒸気した顔をむけてきた。
少し間隔のあいた目もとに少しソバカスが散り、ちいさな鼻が少し上向いている。そんな少しずつの特徴が合わさって瑞穂の顔ができあがっている。そのどの部分が好きなのかは、よくわからない。全体のバランスなんだろうな。
瑞穂の口もとにえくぼが浮んだ。
瑞穂はすっきりした顔立ちをしているけど、頬はもち肌で、そこがポコンとくぼむと、ぼくは幸せな気分になる。
瑞穂が軽く首をかしげ、うなじまでの黒くつややかな髪がさらりと揺れた。
「卓巳さん、ありがとう」
それが瑞穂の返事だった。瑞穂はすぐ、伏し目がちの視線をそらした。ぼくがはめた婚約指輪をなでている。ぼくはその手をとって、もういちど握りしめた。きっと幸せにする――心からそう思った。
柔らかな風が吹きぬけ、頭上でクスノキがさやさやと葉を鳴らした。
ふたりで大樹をふりあおいだ。根もとから見上げると、晴れた空のほとんどが枝葉におおいつくされてしまう。木漏れ日が光りの粒となって降りそそいでくる。つややかな葉が光りを反射してまぶしい。
枝葉がまた揺れた。太い幹のなかほどから、1本だけ伸びているしなやかな枝の先に、木漏れ日が反射してキラリと光った。
「クスノキも指輪をはめているみたい」
瑞穂はそう言ったけれど、ぼくには、クスノキがなにか思い悩み、首をかしげているように見えた。そんな気がしただけ……なんだけど。
ぼくと瑞穂はこのクスノキの下で出会った。
1年3か月前――。
ぼくは農大を卒業し、園芸用品専門のメーカーに就職して働きはじめていた。橋本瑞穂と出会ったのは、就職して間もない頃だ。
ぼくは有機肥料のサンプルを抱え、園芸店をまわっていた。気象庁はなかなか梅雨明け宣言をしなかったけど、その日は37度という猛暑になった。きつい日差しのなか、慣れない営業で歩きまわり、ぼくはかなりへばっていた。
そのとちゅう、ぼくが一人暮らしをしている町を通りかかり、駅の裏側に広がる緑地に足を踏み入れてみる気になった。引っ越してきたばかりで、訪れるのはそのときが初めてだった。
駅からゆるやかな坂道がのび、周囲にはたくさんの緑が残っていた。駅の反対側は開発が進んでいるけど、このあたりはまだ手つかずなんだ。
二車線の狭い道路のわきを登っていった。ブナ科の樹木が葉を茂らす雑木林が両側に広がっている。近づくとクヌギだった。日差しに目を細める先に、青い堅果が実っていた。
秋には熟し、どんぐりになって周囲に散らばる。子供のころ夢中でやったどんぐり拾いを思い出した。
ふたたび坂道を登りだした。太陽がじりじり照りつけ、どっと汗があふれだした。ぼくは来たことを後悔しはじめた。
ようやく坂を登りおえ、生い茂る雑木林をまわったとたん、あのクスノキが目に飛び込んできたんだ。
それは見事なクスノキで、さえぎるもののない原っぱの真んなかに堂々とそびえていた。ぼくはその威容に圧倒された。ふらふら近づき、思わず見とれてしまった。緑の葉をいっぱいに広げ、その先端からまぶしい光があふれていた。まるで太陽をつらぬいているように見えた。
いま思えば、クスノキの大きな影の下で涼めばよかったんだ。
そのときはただクスノキに目をうばわれてしまい、頭がくらっとしたときには遅かった。ぼくは熱中症にやられ、猛烈な日差しのなか、ぶっ倒れてしまった。瑞穂がいなかったら、死んでいたかもしれない。
冷たい感触に気づいて目を開けると、間隔の開いた目とソバカスが飛び込んできた。ぼくはクスノキの根もとに寝かされ、濡れたハンカチを顔にあてられていた。
ぼくと瑞穂はこうして知り合ったんだ。
しばらくクスノキに寄りかかって休んでいるうちに、気分はだいぶよくなってきた。木の陰にベビーカーが置いてあるのに気づいた。ぼくが目をむけているのを見て、瑞穂の顔がパッと輝いた。
「テンコを紹介するね」
瑞穂がベビーカーに駆けていった。
ぼくの位置からだと、ベビーカーのほろに邪魔されて、赤ちゃんの姿までは見えなかった。赤ちゃんだと思ったんだよ。だってベビーカーだろ! 瑞穂が大切そうに抱えあげたのが、まさかサボテンの鉢植えだとは思わなかった。
「この子、テンコっていうの」
瑞穂は嬉しそうにサボテンを見せてくれた。それは丸くふくれたサボテンだった。あざやかな緑色で、縦に並んだ棘が鋭く凶暴そうだ。
「サボテンのテンに女の子だからテンコ」
瑞穂に教えてもらわなくても、名前の由来はなんとなくわかった。ただ女の子というのはどうだろう。
多くの植物がそうだけど、サボテンの花も両性花で……つまり、ひとつの花に雄しべと雌しべがそろっていて、雌雄の区別はない。雄花と雌花にわかれている植物もあるけど、その場合でもひとつの株に両方の花が咲く。銀杏のように、雄と雌の木にわかれているほうがめずらしいくらいなんだ。
それでも、瑞穂が熱心にテンコの話をするのを聞いていると、そんな指摘をする気はなくなった。瑞穂が女の子だと言えば女の子なんだ。
もっとも最初は、すこし頭がおかしいのかなと思ったけど。とにかく瑞穂は、サボテンをこよなく愛しているんだ。
続