なやみ
レティシアが婚約申込みの話を聞かされた翌日。
モーリス商会の会長室で書類仕事をしていた彼女のもとに、副会長がやってくる。
そして、彼は普段とは異なるレティシアの様子を見て、開口一番に言う。
「……どうしたんだ?随分深刻そうな顔をしているが……」
書類仕事の手も止まり、何やら真剣な表情で考え事をしていた彼女は、ハッ……となってリディーの方を見る。
彼が入室してきた事すら、今気付いたかのようだ。
「えぁ、その……な、なんでもないよっ!」
慌てて取り繕うように彼女は応えた。
明らかに何かを隠しているような反応をリディーは訝しむが……特に突っ込んで聞くようなことはしなかった。
だが。
「……まぁ、悩みごとがあるならいつでも相談にのるぞ。これでも年長者なんだからな」
と、フォローするのは忘れなかった。
「うん、大丈夫。ありがとね。……それより、それは?」
彼女はリディーの気遣いに礼を言ってから、彼が手に持っている書類に目をやる。
「あぁ……昨日の初動試験の結果を、親方がまとめてくれたレポートだ。試験後の各部のチェック結果も書かれている」
「あ!見せて見せて〜!」
さきほどの深刻そうな表情から一転して、普段通り戻ったレティシアの様子に内心で安堵してから、リディーはレポートを彼女に手渡した。
「どれどれ〜……ふむふむ……ほうほう……なるほど〜」
素早く目を通してページをめくっていく。
あっという間にレポートを読み終えた彼女は顔を上げて言う。
「うん、全く問題なしだね」
「親方や品質管理部門の方でもお墨付きをもらったからな。今後も予定通り試験ができそうで安心したよ」
そして、二人は笑顔で頷きあった。
鉄道の方は順調に計画が進んでいる。
近日中には実験線が予定通り整備され、より本格的な試験も開始される。
実験線から続く営業路線の着工や、開業に向けて諸々の準備も進むことだろう。
その一方で。
フィリップからの婚約申込の話は、レティシアの心に雫を落として波紋を生じさせていた……
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
商会の仕事を早めに切り上げたレティシアは、公爵邸に帰る前にとある場所に寄り道しようとしていた。
普段は護衛がてらエリーシャが同行することも多いが、今は一人である。
やって来たのはディザール神殿総本山。
とくに何かの用事があるわけではないが……静かな場所で落ち着いて考えたいと思ったのだ。
(……本当はこういう悩みって、エメリナ様の領分だと思うのだけど)
カルヴァード12神の一柱であるエメリナは、生命を司る女神である。
そして、恋人や夫婦に祝福を与えると言われ、エメリナ神殿には、恋の悩みを抱える多くの者たちが訪れるという。
だが、あいにくとイスパルナにはエメリナ神殿は存在しない。
(ディザールさまも、困っちゃうよね)
厳しい男が困ったような顔をしているところを想像して、彼女は思わずクスッとしてしまう。
(まあでも……何を悩んでいるのかも、良くわかっていないのだけど)
だからこそ、落ち着いて考えたいと思ったのだ。
そしてレティシアは……燭台の灯りとステンドグラスから差し込む陽の光によって、神秘的に彩られた礼拝堂の奥、神像の前まで進もうとする。
そこでは多くの人々がいたが、みな一心に祈りを捧げるだけで静寂を破るような者はいなかった。
レティシアもその中に混じろうとしたとき、彼女に小声で声をかけてくる者がいた。
「レティちゃん……?」
「え……?あ、ロアナさま……こんにちは」
「こんにちは。……どうしたの?一人でここに来るなんて、珍しいわね?」
ロアナと呼ばれたのは……歳は20代半ばから30代前半くらい、腰まで届く淡い金髪に空色の瞳、穏やかな雰囲気をまとった女性だった。
その格好からすれば神殿の聖職者……それもかなりの地位であることがうかがえる。
そして、レティシアに語りかける口調はくだけており、親しい関係であることを示していた。
実は彼女、ディザール神殿総本山の最高位である大司教だ。
領主一家であるモーリス家とは、祭事の打ち合わせなどで度々会っているので面識があるのだ。
「あ、いえ……今日はただお祈りに来ただけです」
「そう…………何か悩みごとがあるなら、相談にのるわよ」
レティシアの様子から何かを察したロアナは、気遣わしげにそう言う。
幼い頃から接してきたので、親戚の娘さん……くらいの感覚を持っているようだ。
それに対してレティシアは、『何でもない』と応えようとした。
しかし……ふと、思い直して応える。
「相談に……乗ってもらえますか?」
「ええ、もちろん。ここでは何だから……」
快く応じるロアナ。
そして彼女は、レティシアを神殿内の別室へと案内するのだった。




