塔
そこに塔が立っている。
塔の姿は何も言うまい。塔自身もまた何も言わない。
例えば塔があるとする。
その塔は低い。低くて太い。とても頑丈に見える。ずしりとした体躯、どしりとした面構え、そしてがしりとした拳を彷彿とさせる。強い風が吹けども堂々と立っている。桶屋が儲かろうにも、この塔があっては素寒貧だ。何かに狙いを定め暫し遠くを見つめ、ふらりと目を落とし近くを眺め、また遠くを狙う。塔の影は日が暮れるにつれ装いを変え増えたり減ったりしている。朝には四本が寝そべり、昼には二本が談笑する。夕暮れには三本が別れを告げ、夜になると一人孤独に座っている。塔は何も言わない。近くを遠くを見てはふっと目を閉じる。目を閉じてしばらくすると,すうっと目を開いてはぱちくりと一つ瞬きをし,また近くを遠くを眺める。その眼差しは何を思っているのか判別はつかない。いろんな表情を見せる。
もし私がその塔の近くに住んでいれば、きっと毎日飽きもせずに眺めている。明け方から朝にかけて、朝から昼にかけて、昼から夕にかけて、夕から夜にかけて、そして夜から夜更けにかけてじっくりと見つめるのだ。そうして1日を終える。1日が終わると、また新しい1日がやってくる。塔を見つめる。そんな生活がしばらく続くと、塔はこちらを見つめる。明け方はさっぱりとした眉で、朝はひどく優しい目元で、昼は輝いた瞼で、夕は穏やかな眦で、夜は静かな睫毛で、夜更けは深い眼で、塔はこちらを、四方八方を鳥瞰する。そうして見つめ合うと、また1日が終わる。そんな日が続く。ある日塔は私を見つめて離さない。私は気恥ずかしくなって目を逸らす。それでも塔は見つめることをやめない。私はむず痒くって眺める位置を変える。塔は少し遅れてこちらに視線を移す。ならばと私は塔を見つめ返す。塔は決して私から目を外さない。私は諦めて矯めつ眇めつする。いつしか塔は私を見ることをやめてしまっていた。なあんだ。ある日塔は私を一度も見なかった。私が足元をうろちょろしても何もないみたいに一切見なかった。体に触っても大きな音を出しても、泣いたふりをしてみても、怒ったふりをしてみても、全く私を見てはくれなかった。どうしてか悲しくなって、少しだけ涙が出た気がする。いつのまにか船を漕いでいた。塔はこちらを見ている。塔は優しい。ある日塔に背を向けてみる。私からは絶対に見ないぞ。塔は何も言わない。何度か視線は感じるけれど、塔は何も言わない。私も何も言わない。次第に可笑しくなって、肩を震わせてしまった。塔はいままで心配そうにしていたみたいだったが、少しだけ暖かくなって、また遠くを眺めていた。私は背を向けているけれど、目が合っているような気がした。塔も私を見ていないようだったけれど、どこか生暖かい視線だけは感じるかもしれない。気付けばぼうっと蜃気楼が見える。
蜃気楼はこちら見ている。今にも包み込もうとじっとこちらを見ている。どこかへ連れて行こうとじりじりとにじり寄ってはこちらを見ている。近づいてきたかと思えば,また離れていく。しばらく離れてはまたじわりじわりと近づいてくる。塔は蜃気楼を見つめている。見つめているというにはやけに鋭い目つきに私は少し怖くなってしまう。蜃気楼が近付くと塔はやはり睨みつける。蜃気楼はたじろいだ様子で離れていく。塔はずうっと遠くのこれを狙っていたのだろうか。わからないけれど、そうなのかもしれない。しばらく近付いて離れてを繰り返していると、もうすぐ側まで近付かれている。塔は、塔は睨むだけだ。私は少し頭が暖かくなって「どこかに行かなければ」そんなことを思う。きっとそんなことを思う。少しだけ背伸びをして,膝を立てて,膝に手をついて,前屈みになって,ぐっと全身に力を入れて,膝を伸ばす。視線が高くなる。背伸びをしたのに,体はパキパキと下から上へ音を鳴らす。ぐうっと足先に熱が移動する。でも足は前にも後ろにも進まない。どこかに行こうと熱は言う。足は知らないふりをして私を立たせている。塔はちょうど私の太腿を見ている。少し冷たい。私は塔を見る。少し高くなったかな。少し細くなったかな。塔は頼りない姿になった。でもどこかずしりとした重みがある。塔は何も言わない。塔はじっと私の太腿のあたりを見つめては,また蜃気楼を見る。ずうっと遠くを見る。段々と近くに目を落として,私の太腿を見る。少し暖かい。塔はそこにある。何も言わない。何故。少し腹が立ってくる。私がいま蜃気楼と共にどこかに行ってもいいということなのかな。どうして止めてくれないのだろう。まさに今私は一歩踏み出して、どこかに行こうとしているのに、きっと塔は分かっているのに、どうして私を止めてくれないの。どうして何も言ってくれないの。もうこんなにも一緒に過ごして、こんなにも私は感じているのに。塔は高い。塔は高くて細い。とても軟弱に見える。こんなにも弱々しい。私は蜃気楼を見据える。塔に背を向け、そちらへ行くと、見染める。ぶわりと風が吹く。私を後押ししている。蜃気楼はにんまりと醜悪な笑顔を向けている。蜃気楼は近付く、近付く、どんどん、段々、近付く。近付く。風は強い。今にも私は前のめりになる。背後からは一層強く、赤く暗く青く濁る、かつて感じたことのない圧倒的な怒りを持つ風。凄まじい存在感を放つ風。蜃気楼は一目散に離れていく。私を置いてみるみる遠く逃げていく。踏み出しかけた足も行く宛も無く力と熱だけを帯びている。風は引き戻る。向かい風に変わる。背後の存在感は見る影もなく、遠くを見つめている。その塔は低く太く弱々しく、頑丈で強く、そして優しい。
私の足は一歩動く。いつのまにか腰まで暖かい。どこかに行かなきゃなんていつのまにか忘れて,塔を見ている。私の足はまた一歩動く。少しだけ塔に近づいている。どうやらまた蜃気楼は遠くから私を見ている。いつからいるのか、近付いてきたのか、全くわからない。気にしてないからね。もうあんなのにはどうにもされないさ。塔と目が合う。これも久々かもしれない。塔は少しにこりとして私を見ている。私もすこしにこりとして塔を眺めている。
塔はまだ立っている。堂々と立っている。私は静かにそれを見ている。私は立ったり,座ったり,寝転んだりして塔を見ている。きっともうどこかに連れて行かれることもないだろう。私はここで塔を見ているんだ。