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地獄か天国か

視界が少しぼやけていた。

炎の光が拡散し、母親の顔が万華鏡のように揺らいで見える。

太鼓と弦楽器の音色に、僕の心臓の鼓動が混じりあった。

口には再び緑色の咀嚼物が運ばれる。

この世のものとは思えない程の美味が多幸感となって脳みそに襲い掛かかった。


この葉っぱは、麻薬だ。


僕がそのことを確信したとき、焚き火の中から赤ん坊の大きな泣き声が聞こえた。


僕は正気を保とうと目を凝らし焚き火を眺める。

炎の前に立つ人物が、少し大きなラグビーボールほどの物体を焚き火の中へ投げ入れていた。

ラグビーボールが炎の中に落ちると、ぼわっと火の粉が大きく舞い、そして再び赤子の泣き声が響く。

僕がその可能性に思い至るまでに、更に幾つかのラグビーボールが炎の中へ消えていった。


大きなラグビーボールに見えた物体、あれは赤ん坊だった。

赤子が、炎の中に投げ込まれているのだ。

これが現実だとは思えなかった。

これは夢ではないだろうか。

どこか他人事のように、その光景を眺めることしか出来なかった。

炎の中に投げ込まれた赤子は、大きな声で泣き叫ぶ。

その叫びは、幾重にも重なり、盛大な交響曲のように感じられた。

ふと母親を見上げると、彼女が少し穏やかな顔になっていることが分かった。

次の瞬間、彼女は僕を布で包み、抱き上げる。


頭の中が真っ白になる。


おい、待ってくれ。

お願いだ。

待ってくれ。


母親は僕を抱えたまま、炎の方へ一歩一歩進んでいく。

先程まで、炎の中から聞こえる泣き声は、僕とは関係のない叫びだと思っていた。

しかし、今、その叫びは、とても悲痛なものにしか聞こえなかった。

炎に近づくにつれ、タンパク質が燃える嫌な匂いが漂ってくる。

僕が何か悪いことをしたのだろうか。

17歳のあの日、僕は死んだんだ。

それなのになぜ、僕は再び死ななければならないのか。

こんなにも無力な赤ん坊を、炎の中に投げ入れ殺す意味はあるのだろうか。


狂ってる。

僕はそう感じた。

もしかしたら、ここは地獄と呼ばれる場所なのかもしれない。

17歳で死ぬまでに、僕は何か、許されざる過ちを犯していたのかもしれない。

神様は、きっと、僕に罰を与えるために、この地獄へ転生させたのかもしれない。

そう思うことが、最も正しい答えのような気がした。


あっという間に、母親は炎の目の前まで辿り着き、僕を包みごと誰かに手渡した。

見上げれば、僕を預かり抱きかかえたのは、あの鋭い目をした爺さんだった。

焚き火に向かい祈禱のようなことをしていたのは、あの部屋にちょくちょく来ていた爺さんだったのだ。

皺くちゃな顔に、切り込みを入れたような一対の瞳。

爺さんの顔は、崩れかけの梅干しみたいだな。

僕はそんなことを考えた。

その顔は、とても穏やかなものに見えた。

炎を目の前にしても、彼は汗一つかいていない。

爺さんが、何事かを唱えだした。

その声は、僕に向けられているのではなく、炎に向けられているのでも無い。

爺さんの声は、世界に向けられているのだ、ふと僕の魂がそう確信した。


僕は、炎の中に投げ入れられた。

空中で見えたのは、満点の星空。

そして、母親の、安らかな笑顔。


焚き火の中に落ちると、その反動で僕を包んでいた布が解かれた。

布は焼け消え、僕の視界は真っ白い炎に染まってしまう。


気付くと、今度は僕の全身がじりじりと焼かれていることが分かった。

薄い皮膚は音を立てて硬くなり、裂け、僕の内側を炎に差し出した。

肉は焦げ、高温の熱は骨にまで達する。

全身の筋肉や靭帯が自然に収縮し、僕の身体はまるで、母親の胎内に居るときのような体勢を作った。

硬い卵のように、僕は身を丸める。

眼球は焼かれ、鼓膜は裂け、皮下脂肪がぱちぱちと弾けていた。

腹の中で、ぼこぼこと振動が起きる。

内臓が沸騰しているのだ。

腸が躍り、心臓は小さな小さな塊になっていく。


痛みは無かった。

恐怖も無かった。

世界の全てへの慈悲と。

母親への愛情。

炎への畏怖。

風への愁腸。

水への恍惚。

土への信敬。


縮みきった肺が、再び膨らむように感じた。


楽しい。


この世に生まれ落ちたことに、ありがとう、と言いたかった。

こんな楽しい気分になれることに、感謝したかった。


張り裂ける寸前まで膨らんだ僕の肺は、空気の塊を吐き出した。

声帯を震わせ、気道で反響した僕の泣き声が、世界に飛び出す。

さっきまで縮こまっていた筋肉は解放され、自由に足が伸び、腕が広がる。


ああ、やっぱりさっきまで聞こえていたのは交響曲だったのだ。

赤ん坊たちの、喜びの雄叫び。


ここが、天国なのだろうか。


歓喜の涙は、炎の熱によって、すぐさま弾け消えた。

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