【百合短編】ウィニペグの人狼 ―前編―
<1>
一八八二年、カナダのマニトバ州ウィニペグで、街を恐怖に陥れた殺戮者と化した一人の人狼が殺された。
その人狼は女性であったが、数奇な運命のもとに人間の少女と深い絆で結ばれており、それに伴うかのように人の子供を決して襲うことをしないという独自の騎士道の持ち主であった。
今回の話は、そんな彼女の人生について語ってみたいと思う。彼女に名はなく、以後彼女については『人狼』と呼ぶことにする。
<2>
一七七九年のある日、幼い『人狼』が、ポールという猟師の男によって巣から捕らえられてツケ代として酒場に売られ、酒場の親父ホーガンにぼろを着せられて鎖に繋がれた上に、酔客の前で犬に襲わせるという見世物にされた。
彼女はいつもひどい怪我を負っていたが、『人狼』の成長は早く、彼女が育っていくと敵う犬は徐々に少なくなっていく。
ホーガンには一人娘がいた。名はジェイミー。まだ九歳で、いつも男の子のような格好をしており性格も男子のそれであったが、とあるきっかけでジェイミーと『人狼』に絆が育まれることになる。
親父は癇癪持ちで、些細なことに腹を立ててジェイミーに乱暴を働く悪癖があった。彼の不興を買ったジェイミーは、ふとした考えから逃亡先として『人狼』の小屋を選ぶ。『人狼』は「この子、手、出すな!」と片言の人語で叫び、敵意を顕にした。
ホーガンは『人狼』を撃ち殺そうかと思ったが、そうするとジェイミーに誤射する恐れがある。さすがにそこまで怒りで我を忘れていなかったので、肩を怒らせながら酒場へと戻って行く。
このことがあって以降、ジェイミーは父に折檻を受けそうになるたび『人狼』の小屋へ逃げ込むようになった。『人狼』はそのたびにジェイミーをかばい、ジェイミーもまた人間が食べるものと同じ温かいごはんを運び世話するようになる。
「ごめんね、オオカミちゃん。本当は君をここから逃してあげたいけど、そしたら私はきっと父さんにとても酷い目に合わされる」
「ジェイミー、気持ち、嬉しい。ジェイミー、優しくしてくれる。ワタシ、傍いる、十分」
『人狼』の頭を優しく撫でるジェイミー。『人狼』も彼女に頭を預け寄り添う。種を超えた強い絆がそこにあった。
その後、いつぞやのポールが泥酔して酒場のタンという従業員に絡んでいたところを、ジェイミーが棒で足を殴るという事件が起きる。ポールが逆上しその棒を手にジェイミーを追いかけると、彼女は例によって『人狼』の小屋へ逃げ込んでいた。
親愛なる者に暴行を働こうとする酔漢に唸り、飛びかかろうとする『人狼』。しかし、首の鎖のせいであと一歩届かない。そんな『人狼』を、ポールは安全圏から一方的に棒で打ち据えた。
「オオカミちゃん、やっちまえ! 父さんのお仕置きとか知ったことか!」
ポールがはっとしてジェイミーの方へ視線をやると、彼女が『人狼』の鎖を繋いでいる杭を引っこ抜こうとしているところが映る。杭は十分深かったが、万一抜けたら彼をどこまでも追いかけ回し、八つ裂きにするであろうことは難くない。たちまち恐怖を覚え、その場から慌てて逃げ去った。
「大丈夫? 痛いよね。ごめん、私のせいだね」
一難去り、優しく撫でようと手を出しかけたが、そうすると傷に障ると考えジェイミーは声をかけるだけにとどめた。
「平気。ジェイミー、怪我ない、よかった」
「くすぐったいよ、オオカミちゃん!」
ぺろぺろとジェイミーを舐めて親愛の情を示す『人狼』。両者の姿は、まるで愛犬とじゃれ合う子供のようであった。しかし『人狼』に加えられる危害はあいも変わらず、彼女はすべての犬と酒臭い大人に対する憎しみ、そしてジェイミーのみならずあらゆる人の子への愛情という相反する感情を抱き育っていった。
<3>
秋のこと。山地の家畜を人狼に荒らされていた牧場主たちが対処に悩んでいるところに、一人のドイツ人男性がウィニペグのクラブへやってきた。
彼は体重九十キロ近い二匹の立派な猟犬を飼っており、これらならば人狼などわけもなく仕留められるとうそぶいてみせた。
さっそく人狼狩りをさせようという話になったが、肝心の人狼にとんと遭遇しない。そこでホーガンの酒場から、実力を見せるための実験台としてあの『人狼』を譲り受けようという話になった。
ホーガンは表面上は「良心が痛む」と言いつつ内心打算しながら『人狼』の受け渡しを渋ったが、言い値で払うと言うと、あっさり良心の痛みとやらは消え失せてしまう。
まずはジェイミーをお遣いに出すことで遠ざけ、その後箱詰めにした『人狼』を箱を斧で壊し野に放つ。彼女は最初事情が飲み込めず戸惑っていたが、離れた場所から二匹の猟犬が一気に迫ってくるのを目撃した。
たちまち距離は縮まり、『人狼』も牙の餌食になるのみと考えた見物人たちは、どっちの犬が彼女を仕留めるかで賭けを始める。
しかし彼らの予想を裏切り、彼女はあっという間に猟犬たちの肩と脇腹を噛み砕き戦闘不能にしてしまう。面子丸つぶれとなったドイツ人は名誉挽回すべくさらに秘蔵っ子の巨犬四匹をけしかけ、見物人たちも棒や投げ縄を手に加勢に加わるが、そのとき思わぬ邪魔が入った。
街の方角から馬がすごい速さで駆けてくる。その背には、ジェイミーがしがみつくように騎乗していたのだ。
「オオカミちゃん! 無事かい、オオカミちゃん!」
彼女は『人狼』の傍で下馬し、駆け寄って抱きしめる。
このときジェイミーが大人たちに言い放った、荒くれ集う酒場仕込みの罵詈雑言は、ここにはとても書けないような代物であった。九つの子供に立腹してぼこぼこにするわけにもいかず、彼らは立つ瀬のなくなったドイツ人を笑い者にすることで、その代わりとした。
「行こう、オオカミちゃん」
『人狼』の手を引き、草原の離れへと向かうジェイミー。大人たちから十分離れると、彼女は『人狼』に言う。
「タンから君のピンチを聞いて、すっ飛んできたんだ。君は酒場にいちゃダメだ! 逃げるんだ!」
しかし、『人狼』はこう返す。
「ジェイミー、ずっと、一緒。離れたく、ない」
しばし二人の押し問答が続いたが、ジェイミーも本心では『人狼』と一緒にいたかったので最後には折れ、『人狼』は酒場に戻ることになった。
<4>
冬の初め、ジェイミーは熱を出し寝込んでしまった。ジェイミーに会えなくなった悲しみで『人狼』がしきりに悲しみの遠吠えを上げる。
ジェイミーは父に、『人狼』を自分の部屋に入れてくれるよう懇願した。ホーガンも病床の娘の願いを無碍に断るほど酷薄でもないので、『人狼』はジェイミーの部屋に連れてこられた。
「オオカミちゃん……」
『人狼』の頭を抱きしめるジェイミー。
「ジェイミー、熱い、大丈夫?」
「絶対良くなるよ。そしたら、また一緒に……」
『人狼』が傍にいてくれることに安心したのか、彼女は『人狼』を抱きしめたまま眠ってしまう。『人狼』は彼女が再び目を覚ますまで、ずっとそのままの姿勢でいた。
彼女は以降、ずっと最愛のジェイミーの寝所を離れることはなかった。その様は、まさに忠実な番犬の如しである。
しかし悲しいかな、クリスマスが近づくとジェイミーの容態は急激に悪化し、薬石効なくジェイミーはその幼い命を散らしてしまう。クリスマスの三日前のことであった。
『人狼』は最初「死」が理解できず、ジェイミーをなんとか元気にしようとベッドに横たわる彼女に必死に呼びかけたり舐めたりしたが、ぴくりとも動かず、あれほど熱かった体が急激に冷えていくのを感じ、ついにはジェイミーの身に何が起きたのかを察した。『人狼』は実の父以上に慟哭し、張り裂けんばかりの悲しみの咆哮を上げる。
ジェイミーの遺体は、セント・ボニフェースの教会にある墓地に葬られた。『人狼』もそれに付き添う。弔鐘が鳴ると、彼女も最後の別れを告げるかのように、あまりにも切ない遠吠えを何度も何度も繰り返す。
ホーガンがリードを引いて『人狼』を連れ帰ろうとするが、彼女はものすごい馬鹿力でそれを引っ張り、親父が力負けして離してしまうと何処へと走り去ってしまった。