70話 涙
風舞
舞にローズと一緒に風呂場に連れて行かれ、3人並んで黙々と自分の体を洗っている間はストレスで胃に穴が開くかと思いもしたが、入浴剤の薔薇の香りのする湯船に入ってみると、いくらか気分が解れるのを感じた。
フレンダさんは風呂場に来る道中にスタコラサッサと白い世界に引き返してしまったが、舞もローズもいくらか和んだ顔をしているし、想像していたよりは修羅場にならなそうでいくらか安心する。
「ふぅ……。やっぱりお風呂は良いわねぇ」
「うむ。何とも良い気分じゃ」
先ほどまでぐずっていた吸血鬼様もそれなりに機嫌を直してくれたみたいだし、しばらくはここ数日の疲れをゆっくり癒せそうだな。
なんて思い、気を緩めていたその時だった。
「マイとフウマには先に言っておこうと思っておったんじゃが、妾はスカーレット帝国に戻ろうと思う」
ローズがとんでもない事を言い出した気がした。
「え、ええっとだなローズ。それはその、俺達と一緒にいるのが嫌になったとか、そういう話なのかね?」
「お、落ち着いてちょうだい風舞くん。ご、語尾がおかしくなっているあるよ?」
俺も舞も、まさかローズがそこまで思い詰めていたとは思ってもいなかったため、口調に揺らぎが生じてしまう。
だ、だってローズが帝国に帰るってそれはつまり………
「そうではない。ただ、妾はそろそろ自分の問題に決着をつけようと思っただけじゃ」
「それは、魔王に返り咲こうという事かしら?」
「今の妾が玉座に戻ったとて、国を支える程の力は無いじゃろうよ。妾はただ、皇帝としての権限を正式に次の者へと移譲しようというだけじゃ」
「なんだ。そういう事なら、俺達もスカーレット帝国での王位継承に付き添おう。今の帝国はかなり治安が悪いし、ローズ一人じゃ心配だもんな」
「いいや。今回は魔王である妾と勇者であるお主らとの関係を民に知られる訳にもいかんし、妾一人で行くつもりじゃ」
「それは私や風舞くんが人族であるから同行は出来ないという事かしら?」
「そうじゃ。話を円滑に進めるために、余計な波風は立てたくない」
「それなら俺は良いだろ? 変装だって出来るし、ハーフヴァンパイアって事で騙し通せるはずだ」
「お主は帝都で大立ち回りをして来たばかりじゃろう? 妾の国の者はお主の気配を嗅ぎ分けられぬほど愚かではないわい」
「それは……そうかもだけど」
スカーレット帝国へのローズの帰還に同行するだけの理由が見つからない。
俺が勇者でありローズが魔王である事は、両者の間に俺の想像以上に大きな隔たりがある事を無理矢理に実感させられた。
いや、今までもその事に気がついていたのに、見て見ぬフリをしていただけか……
「ローズちゃん。私はケジメをつけようという話には賛成よ。でも、どうしてこのタイミングなのかしら?」
「悪魔の動きが活発化しておる以上、帝国が揺らいだままでは魔族領域を悪魔供に落とされる可能性が高い。帝国を素早く立て直し、ジェイサットの二の舞にならぬ様にするべきだと考えたのじゃ」
「……………風舞くんから逃げようとしている訳ではないのね」
「舞……」
「ごめんなさい。今は風舞くんは黙っていてちょうだい」
いつになく真剣な舞にそう言われ、俺は二の句を継げなくなってしまう。
こんな時、俺はどうするのが正解なのだろうか。
「妾にはフウマから逃げる理由などない。あくまで、今後の展開を考えての行動じゃ」
「そう。ローズちゃんがそう言うのなら、これ以上は追求しないわ。ただ、欲しいものは自ら望まねば手に入らないのよ。それだけは例え魔王でも、勇者でも変わらないわ」
「分かっておる。妾を誰だと思っておるんじゃ」
「………私の一番大切な仲間よ。それじゃあ、私はまだ夕飯の支度が残っているから先に失礼するわね」
舞はそう言うと立ち上がり、俺に「後はよろしく」とばかりに目配せして風呂場から去って行く。
残された俺とローズは一言も交わさぬまま、数分ばかり湯船に浸かったままでいた。
「そろそろ妾達も上がるとするかの」
「ああ」
そうして俺とローズは多くは語らないままに風呂場を出て、それぞれ髪を乾かしたり服を着たりと身支度を済ませる。
俺はローズに何度も声をかけようとしたが、思うように声が出ないでいた。
だからだろうか。
「少し、外の風に当たらぬか?」
ローズが俺と話をする場を作ってくれた事はかなり救われた様な気がした。
そんなローズは少しだけ冷たい夜風に金の髪をなびかせながら、俺の方を向いて柔らかい笑顔で話を始める。
「のうフウマよ。妾はの……お主の事が好きじゃ」
「……………ああ」
「なんじゃいその顔は。この妾がお主を好きじゃと言っておるんじゃぞ? もっと嬉しそうな顔をせんか」
ローズが少しだけ唇を尖らせながらも、尚も柔らかい笑みを浮かべながら話を続ける。
「遅かれ早かれ、一度お主らとは別行動せねばならぬ時が来ると前々から思っておったのじゃ。お主がフレンダを救出し、悪魔と繋がっておったレイザードを失墜させた今を逃せば、妾の未来も帝国の未来も潰えてしまうと思っておる」
「それは分かるけど、やっぱり俺も一緒に行く事は出来ないか? 目立つのがダメだって言うのならエルセーヌやフレンダさんと協力してどうとでもするし、もっと高度な変装が必要ならボタンさんにでも集中的に教われば良い。俺は絶対にローズの足を引っ張ったりはしないと…」
「そう我儘を言うものでない。居間におったあの犬に似た狐はボタンのところの使いじゃ。お主の力を必要とする者がいる以上、意味もなくお主を連れ回す事など妾には出来ぬ」
「意味がないと、俺はローズと一緒にいられないのか?」
「そうじゃ。妾が魔王でありお主が勇者である事は、お主が思っておるよりも重い意味を持つ。そろそろお主もその事が身に染みて来たのではないかの?」
ローズにそう言われて最初に思い至ったのは、つい最近のクロードさんの言葉だった。
彼は俺がクロードさんの力を借りる事は、勇者の力が未だ第1師団を超える絶対的なものではないと、世界に喧伝する事と同じ意味を持つと語っていた。
俺が勇者であることを望まなくとも、このラングレシア王国で活動する以上は、良くも悪くも俺は勇者として評価される。
かと言ってこの世界に転移させられた直後の様に逃げ出してしまえるかと言えば、俺はこの国の人々や勇者達について深く知りすぎてしまった。
以前ローズが言っていたが、ステータスカードに刻まれた勇者の称号が勇者の正義感を引き出すという話は、確かに真実であるらしい。
「……………俺は大切な女の子が危険な場所に赴こうとしているのに、止めてやる事も一緒に行ってやる事も出来ない」
「案ずるでない。妾は千年を生きる魔王じゃ。そう易々と討ち取られたりはせんよ」
「俺に、俺にもっと力があればローズ一人にこんな重荷を背負わせずに済んだ」
「元はと言えば妾が蒔いた種じゃ。お主が気に病む事はないわい。それに言ったじゃろう? これは妾がケジメをつけるために臨んで行う里帰りなのじゃ」
「なら! なら、どうしてお前は泣いてるんだよ! どうして、どうして辛いのにそんな顔が出来るんだよ!」
ローズの涙を湛えた笑顔など、もう見ていられなかった。
ローズが苦しんでいるのに、俺はどうしてやる事も出来ない。
どうして俺はこんなにも無力でこんなにも情けないのか、自分の力無さが悔しくて仕方がない。
「千年というお主ら人間にとっては長い時を生きて妾はようやく、ようやく大切なものを見つける事が出来たのじゃ。その大切なものを守ろうというのに辛い筈があるものか」
「っっ……!!」
俺はローズを抱きしめてやる事しか出来なかった。
本当なら俺にローズを抱きしめる資格などないのかもしれない。
だが、俺にはそうする以外にどうすれば良いのか分からなかった。
「フウマよ。泣いておるのか?」
「そうだよ……こんちくしょう」
「やれやれ。お主もまだまだ子供じゃのう」
「絶対に、絶対に無事に帰って来てくれよ。俺は、俺は………」
「その先は無理に言わんで良い。お主がこうして妾を想って涙を流してくれるだけで今は十分じゃ。じゃからほら、いつまでも泣いていないで前を向かんか」
「ローズだって泣いているじゃないか」
「妾のこれは乙女の武器じゃから、お主になら見せても良いのじゃ。エリスに聞いたが、男というのは弱っている女に心惹かれるのじゃろう?」
「ああ。そうだな」
その後、俺は泣きながら笑みを浮かべるローズを見て、涙を流しながら無理矢理に笑みを浮かべ、互いの無事を祈りながら長い間ローズを抱きしめていた。
そしてもう二度とこんな思いはしない様に、自らが進むべき道を確かに見定めるのであった。
◇◆◇
グルーブニル砦にてジェイサット魔王国とラングレシア王国の軍隊がぶつかった数日後、ジェイサット国内のとある屋敷にて1人の鬼が、1人の悪魔と対峙していた。
「それじゃあ、はい。お待ちかねのブレイドモスの魔石と、呪術師に作らせた悪魔の祝福の模造品。後はスカーレット帝国のお偉いさんが持っていたのと同じ、悪魔の力を引き出す短剣だね」
「ウフフフ。顔に見合わず仕事は優秀なのね」
「そりゃあこの腕一本で生きて来たからね。並大抵以上ではあると自負しているよ」
腕落としという二つ名を風舞によってつけられた鬼の男はそう言いながら肩を竦め、軽薄そうな笑みを浮かべる。
彼の浮かべる笑みの奥には強い執念と激しい後悔が渦巻いているのだが、そのどちらもベルベットに伝わる事は無かった。
「それにしても、悪魔の秘密結社に所属しているベルベットちゃんがどうしてそこの商品をおじさんに入手させたりなんてしたんだい?」
「ウフフフ。結社とは言っても、私達はあくまで悪魔の集団よ。それぞれが互いの利益のために動いているに過ぎないわ」
「なるほどね。利益があれば手を組むし、邪魔になれば裏切りもすると。なんとも分かりやすくて良いことだ」
「ウフフフ。もちろん貴方も邪魔になれば無惨に切り落とすから、そのつもりで」
「いやぁ。そんな強烈な視線を向けられたら、おじさんってばゾクゾクしちゃうなぁ」
悪魔とはただ悪を成すためだけの存在であるとは、悪魔を表すのに人族魔族問わずによく知られた言い回しである。
それではそんな悪魔と行動を共にする鬼の男は、悪鬼か羅刹か。
彼が自分の信条のために振りまく猛威は、何人たりとも予想し得るものではないのかもしれない。
これにてグルーブニル砦奪還作戦編は終了です。
この後は、悪魔の結社に関する情報も増えて参りますので、悪魔の脅威に晒されながらも離れた地でそれぞれの使命を全うする風舞やローズ達の姿を注目していただければと思います。
次回更新は12日予定です。




