21話 黒い貴婦人
風舞
これは割とどうでもいい話なのだが、白い世界から現実世界に戻る時は、起きた直後の行動を自由に決める事が出来る。
普通に寝て起きる時は覚醒状態へ移行するまでにいくらかの時間がかかるのだが、白い世界から戻る時はその限りではない。
つまり何が言いたいのかというと……
「ほらシルちゃん。フーマ様の腹筋硬いよ? 触らなくて良いの?」
「こ、こらアン! 主人に対して寝ている間にイタズラするのは失礼だよ!」
「そうは言うけど、身体は正直みたいだよ?」
「こ、これは違…」
「ほらほら〜。自分に正直になっちゃいなよー」
「くっ。欲に囚われたシルビアをどうかお許しください」
寝起き直後でもこうして寝ているフリをする事が出来るのである。
……………。
ていうか、この二人は何をやってるんだ?
「ほわぁぁぁ。これがフーマ様の腹筋…なんと耽美な触り心地…」
「ねぇぇ。これならずっと触っていられる気がするよぉ〜」
二人ともはーんとかほーんとか言いながら俺の腹筋を撫で回している。
そんなにお腹を触られるとこそばゆいんですけど。
『おいフーマ。鬱陶しいのでそろそろ起きてくれませんか?』
フレンダさんもこう言ってる事だし、もう目を開けるとするか。
「デュイン!」
「ぬわっ!? び、びっくりしたぁ」
謎の効果音と共に勢いよく目を開けたら胸を押さえてビックリした顔をするアンと目が合った。
シルビアは……あ、部屋の隅で四つ足ついて尻尾を逆立ててる。
………めちゃめちゃ犬だな。
「ここは?」
「お城の一室だよ。シルちゃんとの試合で気絶したフーマ様をお城のお医者さんが治してくれたの」
「そうか。気絶してからどのぐらい経った?」
「だいたい40分ぐらいかな。お姫様との会談までは、あと30分ぐらいだと思うよ」
「そっか。で、シルビアはいつまでそこでフシャーしてるんだ?」
「お、起きていたのですか?」
「なぁ見てくれアン。俺の腹筋…耽美だろ?」
「っっっ!!?」
「あ、あはは。そうだねー」
『幼い娘に腹筋を見せつけて感想を聞く。やはりフーマは変態でしたか』
「……………。それで、俺の服はどこだ?」
「フーマ様のお召し物は私が焼いてしまったので、城の方に替えを用意していただいております」
「そうか。ありがとなシルビア」
「いえ。元はと言えば私の所為ですし、フーマ様が礼を言う必要はありません」
「真剣勝負だったんだからそんなに申し訳なさそうにしないでくれよ。それに、シルビアの服も焦げてるだろ?」
シルビアが現在着ている服はあちこちが焦げてしまっており、ところどころ穴も空いている。
これはシルビアも着替えた方が良さそうだな。
「シルちゃんったら、フーマ様のお洋服を燃やしちゃったあまりか気絶までさせちゃったからその格好でいるって言ってるんだよ」
「いやいや、シルビアも着替えろよ」
「し…しかし、私は替えの服を持って来ておりませんし…」
「シルビアの服なら俺が持ってるぞ。ほら…」
アイテムボックスからソーディアでボタンさんにお金を借りて買ったドレスを出して手渡してやる。
そういえばソレイドで洗濯に出してから何故か俺の部屋に置いてあって、そのままアイテムボックスに入れっぱなしだったな。
「これを着てよろしいのですか?」
「ん? 別に良いぞ?」
「あ、ありがとうございます」
シルビアが嬉しそうにドレスを抱き締めながらそう言った。
そんなにこのドレスを着たかったのか?
いまいちシルビアの考えが読めない。
『ふん。なんだか面白くありませんね』
「どういう事ですか?」
『別になんでもありません。それよりフーマも早く服を着なさい』
「城の人が用意してくれるらしいですよ?」
『これから大事な交渉だというのに、相手の用意した服で臨むのですか?』
「それじゃあ俺も自分の服を着ます」
俺はそう言いながら最近ボタンさんにもらった和服を取り出す。
ソーディアで買った礼服は暑いし、こっちの方が楽だろう。
『ほう、フーマにしてはよく考えたではありませんか』
「………でしょう?」
『はぁ、愚昧なフーマに期待した私が馬鹿でした。その服を着ておけば相手に火の国と関わりがあると思わせる事が出来るでしょう? それは火の国周辺にしかいない魔物の素材を使っていますからね』
「あぁ、なるほ……いや、分かってましたよ。もちろん分かってましたよ」
『はいはい。ほら、城の者が来る前に着替えてしまいなさい』
「うぃーっす」
「あ、着替えるの? 手伝おうか?」
「いや、俺よりもシルビアの着替えを手伝ってやってくれ」
「分かったよ。それじゃあシルちゃん。早速お洋服を脱ぎ脱ぎしようねー」
「ちょ、ちょっとアン? フーマ様の前で着替えるなんてはしたない事できないよ?」
「それじゃあシルちゃんはその格好でいるの?」
「そうは言わないけど…」
「………俺はソレイドで着替えて来るからシルビアはここで着替えれば良いと思うぞ。それじゃ」
「えぇぇ、フーマ様もここで着替えて行けば良いのに」
「シルビアの裸を見る訳にもいかないだろ…。それじゃあな」
俺はそう言ってソレイドの自室に戻った。
まったく、アンはいつも俺をからかおうとしてくるな。
『シルビアの裸に興味はないのですか?』
「シルビアは俺の大事な従者ですよ? 裸を見れる訳ないじゃないですか」
『……一つ聞きたいのですが、フーマにとって従者とはどの様な存在ですか?』
「えぇっと、いつも俺を助けてくれて俺が大事にしなきゃいけない存在ですかね?」
『では、シルビアが恋人を連れて来たらフーマはどうしますか?』
「そうですね……まず殴りますね。それで…」
『あぁ、もう良いです。よく分かりましたから』
「よく分かったって何がですが?』
『良いですから、口より先に手を動かしなさい。はぁ、フーマは父親になるとこんな感じなのですね』
なんだかフレンダさんがよく分からない事を言っているが、どういう意味なのだろうか。
俺は父親になった覚えなんてないぞ?
…………。
それより、シルビアが彼氏を連れて来たらか…。
やっぱりシルビアを任せるなら最低でも、舞よりも強くてフレンダさんより賢くてローズより優しい男じゃないとダメだな。
うん、やっぱりそうだ。
◇◆◇
風舞
着替えを済ませて戻って来た後、俺はシルビアとアンを連れて舞達の待つ部屋まで転移して戻って来た。
俺がソレイドに行っている間にラングレシア王国の人が着替えを持って来てくれたらしいが、アンが相手をしておいてくれたらしい。
やっぱり俺の従者は優秀だな。
「あら? なんで風舞くんとシルビアちゃんは着替えたのかしら?」
「ちょっとシルビアと戦ったら服を駄目にしちゃってな」
「そう。あまりお城の人に迷惑かけたら駄目よ」
舞がそう言ってふんわりと微笑む。
あぁ、もう真面目モードになったのか。
「ね、ねぇシルちゃん。あの人誰だろ?」
「た、多分マイ様じゃないかな。匂い的に…」
どうやらシルビアとアンには目の前の舞が別人に見えるらしい。
日本にいた頃は毎日こんな感じだったんだよなぁ。
ていうか、シルビアは一度真面目モードの舞を見てるだろ?
「のうフーマ。エルセーヌはどうしたんじゃ?」
「さぁ? どうしたんだ?」
「エルセーヌなら今頃訓練場で勇者様方とお話をしているはずです。フーマ様の近頃の生活に関するお話で大変盛り上がっておりましたよ」
「マジかいな。ちょっとエルセーヌさんをしばいて来る」
「これ、そろそろ時間なんじゃから大人しくしておらんか。それに、あやつががフウマが困る様な話をしているとは限らんじゃろ?」
「本気でそう言ってるのか?」
「あぁ、いや…すまぬ。妾もエルセーヌなら碌な話をせんと思うのじゃ」
「よし、やっぱり訓練場まで行って…」
「あ、そう言えばあのカッコいい顔の勇者様が、元気になったら今度一緒に訓練しようって言ってたよ」
「…と思ったけど、疲れちゃうから大人しくしてようかなぁ」
「マスター…フーマ様はどうしたのでしょうか?」
「さ、さぁ?」
『シルビアに無様に負けた手前、他の勇者に顔を合わせ辛いのですよね。大丈夫ですよフーマ。私はそんな口だけは達者で従者にも負けてしまうフーマの味方です』
「…ぢぐじょう」
「風舞くん!? どうしたの? もしかしてお腹でも痛いのかしら!?」
くそう。
考えない様にしてはいたけどやっぱり悔しい。
こうなったら今日からこっそり特訓して、いつかシルビアがピンチの時に助けてやって俺の主人としての威厳を取り戻さなくては。
そう思って心の中で男の決意を固めていると、今の今までソファーで寝ていたのだろうフレイヤさんが体を起こして扉の方を向いた。
「来た」
「そうみたいね。風舞くん、準備は良いかしら?」
「ああ、もう大丈夫だ」
『マイの前でまで格好の悪いところは見せられませんものね』
…………。
うるさいよ。
◇◆◇
風舞
今回のお姫様との会談での俺達の目標は大きくは二つ。
一つ目は俺と舞がジェイサットとの戦争に協力する際には、正面から戦う戦力としては動かずにあくまで後方支援や、やっても斥候程度だという旨をお姫様に理解してもらう事。
仮にお姫様にこの条件を飲んでもらえなかった場合は、追われる立場になったとしてもラングレシア王国には今後一切関わらないつもりだ。
二つ目は仮に一つ目の条件を飲んでもらえた場合、魔族であるローズがこの城を出入りする許可を出してもらうというものだ。
これは何も自由に城内を歩かせて欲しいという訳ではなく、あくまでもローズが魔族だからという理由で無条件に処刑される事さえ避けられるのであれば、いくらかの制約は受ける構えである。
さて、それじゃあ早速会談を始めるとしよう。
「本日はお忙しい中お時間を割いてくださり誠にありがとうございます」
「いいえ。私としましては高音様と土御門様がまた我らが城にお越し下さり感謝の念しかございません。むしろお待たせしてしまい申し訳ありませでした」
お姫様がそう言って軽く頭を下げる。
やっぱり今回もこのお姫様は笑顔のままだな。
目が赤くて一目で魔族であると分かるローズを見ても一切表情を崩さなかったし、相変わらず何を考えているのか分からない。
俺達を取り囲む様に立っている騎士達がいるから安心して話が出来るのかもしれないが、それにしても肝が座っている。
それに先程俺たちにお茶を淹れてくれたりしたあのメイドさん。
長年ラノベや漫画で勉強してきた俺には分かる。
あの人は只者じゃないぞ。
モブにしてはおっぱいが大きいし、なんだか目つきがエッチだ。
「あいたっ」
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ。なんでもないです」
妖艶なメイドさんを見ていたら横に座っていたローズに太ももをつねられた。
ご、ごめんね。
心の中でローズに詫びを入れていると、紅茶を飲んで一息ついた舞がお姫様に話しかけた。
「近頃はますます暑くなってきましたね」
「ええ。やはりソレイドの方も暑いのですか?」
「こちらほどではありませんがそれなりに暑いですね。ただ、ここ数日は街を上げてのお祭りが開催されておりますので、暑さにも関わらず出歩く人はとても多いです」
「そうですか。ソレイドのお祭りは私も耳にした事がありますし、一度足を運んでみたいものです」
「その際は是非ともご案内させていただきます」
舞がすまし顔のまま笑みを浮かべてそう言う。
俺にはよく分からないが、もしかすると既に舞とお姫様の舌戦は始まっているのかもしれない。
俺は話を振られるまで黙ってるか。
あ、このクッキー美味しいな。
そうして油断していたその時、お姫様が俺の方を向いて話しかけてきた。
「ところで、高音様がお召しになっているそちらは大変見事な着物ですね」
「あ、ありがとうございます。知り合いに貰った俺の一張羅なんですよ」
「そうでしたか。高音様には素敵なお知り合いがいらっしゃるのですね」
「そうですね。いつもお世話になりっぱなしです」
ボタンさんにはいつもお世話になってるし、今度お店の手伝いでも申し出るか。
皿洗いぐらいなら俺にも出来ると思うし。
「では、そちらの魔族のお方はそのお知り合いの方の紹介で?」
「いや、ミレンと会ったのはただの偶然ですね」
「なるほど、貴女はミレン様というお名前なのですね」
「うむ。妾の本名は別にあるのじゃが、今はそう名乗っておる」
「本名を言えない理由があるのですか?」
「別にそういう訳ではないのじゃが、妾の本名はこやつに知っておいて貰えればそれで十分というだけじゃ。これ以上は言わずとも分かるじゃろう?」
ローズが俺の腕に抱きつきながらそう言った。
相手がミレイユさんみたいに嘘を見抜く能力を持っている事を考慮して、肝心なところはボカして答えたのだが、お姫様は少しだけローズを見つめた後で「そうですか」と頷いた。
その後、お姫様は妖艶なメイドさんが俺のカップに紅茶を注ぐのを待った後で再び口を開く。
「さて、それではそろそろ本題に入ると致しましょう」
「本題というのは私達がジェイサット魔王国との戦争に参加するかというものでしょうか?」
「はい。私共としましては高音様と土御門様に是非ともお力をおかしいただきたいのですが、もちろん無理強いをするつもりはありません」
「それでは、仮に私達が殿下のお誘いを断った場合は?」
「私には勇者様方を勝手な都合でこの世界に召喚した責任があります。残念ながらお断りされてしまった場合は十分な補償を約束し、必要であれば他国への亡命の手引きもいたしましょう」
お姫様は真剣な顔でそう言った。
どうやら俺達の意思を尊重するというスタイルは、俺達を召喚したその時から貫いている様である。
だが……
「不躾な質問で恐縮なのですが、殿下の予想ではジェイサットとの戦争に勝つ見込みは如何程なのですか?」
この質問の答えを聞かずしては、このお姫様の言う事は何ら参考にならない。
本当に俺達勇者の意思を尊重してくれるのならばそれ以上に有り難い事は無いのだが、以前舞が言っていた様にこのお姫様が戦争に勝つために俺達を召喚したと言うのならば有無を言わさずに協力させた方が色々と楽に済むはずだ。
もしかするとジェイサット魔王国に対して勇者以外の切り札でもあるのかもしれないが、このお姫様の真剣な顔を見るに、そんな物があるのならばわざわざ勇者を召喚するとは考え辛い。
「戦争に勝つ見込みですか…」
「はい。大して強くもない俺が言うのもおかしいのですが、クラスメイト達の実力では魔王軍に対抗できるとは到底思えませんでした」
エルセーヌさんやキキョウの言っていた事から考えるに、勇者集団では魔王軍の幹部クラスが一人でも出てきたらすぐに全滅するのは間違いないと思う。
未だ成長段階であるのかもしれないが、全面戦争までに実戦登用できるレベルまで仕上がるのかは甚だ疑問だ。
そう思ってお姫様の答えを待っていたのだが、お姫様から返って来たのは答えではなく質問だった。
「皆様は此度の戦争の原因をご存知ですか?」
今回の戦争の原因…。
言われてみれば全く調べてなかった。
ファンタジー溢れる世界だから、血の気の多い魔王が人族の国に侵攻を開始したと思っていたが、よくよく考えてみたらそんな訳ないか。
少なくとも魔王だった頃のローズは何となくで戦争を起こす事はしなかっただろうし…。
そう思って俺の横に座っているローズに視線を向けると、そのローズがお姫様の問に答えを返した。
「此度の戦争の最も大きな原因はスカーレット帝国の魔王の座が空き、スカーレット帝国の雲行きが怪しくなったためじゃ。それによって今まで均衡を保っておった魔族領域の4ヶ国のパワーバランスが崩れ、スカーレット帝国以外の三ヶ国は来たる魔族同士の戦争に備えて力を蓄え始めておる。ある国はスカーレット帝国の有力な部族を引き込み、ある国は大陸の外から傭兵を雇い、そしてジェイサット魔王国はこの国に攻め込んで、労働力と資源と食料を確保しようとしておるのじゃろう」
「はい。ミレン様の言う様に我が国はスカーレット帝国の内乱の余波を受けて数百年ぶりに戦を行う事となりました。この大陸では魔族の力が絶大であり、基本的に魔族と人族の戦争となれば拷問の様な修行を超えて絶大な力をつけた勇者様に魔族の総指揮官を滅ぼしていただくか、他の魔族国家が人族の領域に攻め込んだ魔族国家へ侵攻して戦争を中断する様に働きかける事で魔族と人族の戦争は終結していたのですが…」
「なるほど。殿下は別の道を進もうとなさっているのですね」
舞がお姫様の話に頷きながらそう言った。
お姫様の話に出てきた魔族国家に攻め込む魔族国家というのはおそらくローズの治めていたスカーレット帝国の事だろう。
ローズは他の魔族の国が人族の領域に攻め込まないように目を光らせ、人族に手を出す国があればそこに攻め込んでそれをやめさせていた。
だが、ローズが玉座を離れた事でスカーレット帝国は不安定な情勢となり、他の国はこの絶好の機会に自分の力を伸ばす為に人族にも手を出し始めた。
今までは強大なスカーレット帝国に抑え付けられていたこの3国は、ここで力を付けねば他の国に呑み込まれる可能性があるからなりふり構っていられない。
その一つが今回のジェイサット魔王国によるラングレシア王国への侵攻という訳だ。
「はい。此度の戦争はここ数百年の間にこの大陸で起こった魔族と人族の戦争とは大きく様相が異なります。そこで私は…ヒルデ」
「はい姫様」
お姫様の指示に従い、件の妖艶なメイドさんが何らかの魔法を展開する。
『結界魔法ですね。認識を阻害するものです』
やっぱりそうか。
エルセーヌさんがよく使うものと似ていたから、なんとなく展開された瞬間に分かった。
「失礼。この先はいささか内密な話となりますので結界を張らせていただきました」
『おいフーマ。この結界、外部から干渉されていますよ。エリスを呼んで補強させなさい』
「殿下。大変恐縮なのですが、こちらでも結界を張ってもよろしいでしょうか?」
「ええ。それは構いませんが…」
「それじゃあよろしくエルセーヌさん」
「オホホホ。承知いたしましたわ」
いつものオホホと共にいきなり姿を現したエルセーヌさんがスカートをつまんで優雅にお辞儀をしながら結界を補強する。
周りの騎士達はエルセーヌさんがいきなり現れた事でいくらか動揺しているみたいだが、エルセーヌさんの神出鬼没っぷりに慣れた俺達は何の反応も示す事もなかった。
「オホホ。これで外部にこちらの話が漏れる事はおそらくありませんわ」
「ああ。ありがとう」
「やはりそちらのお方は高音様と関わりのあるお方でしたか」
「はい。俺の従者のエルセーヌって言います。俺達が留守の間に何か粗相はしませんでしたか?」
「そうですね…我が国の機密文書に落書きをした事と、この情報を漏らされたくなければ食事と寝床を用意しろと要求された以外は何も…」
「は? お前、そんな事したのか?」
「お、オホホホ。一昨日も言った様にこの国の暗部はかなり優秀でしたので、少し腕試しがしたくなってしまったのですわ」
「ですわじゃねぇよこのオホホ女!! 今すぐ伏せろ!!」
「ぐえっ!?」
エルセーヌさんが紫色の首輪に縛られながら強制的に地面に伏せられる。
まったく、こいつは何でこんな余計な事しかしないのだろうか。
腕試しをするだけならまだしも、大事なお話の前に俺達に迷惑がかかる様な事はするなよ。
「おいエルセーヌ。今すぐ謝罪しろ。さもなければ尻を叩く」
「お、オホホホ。ですがご主人さ…あひぃんっっっ!?」
「おい、俺は謝罪しろと言ったぞ。お前の無駄に長い耳は何の為に付いてるんだ?」
「オホホホ。ごめんなさいですわ」
「俺の配下がご迷惑をかけてしまい申し訳ありませんでした。つきましては何らかの形で埋め合わせをさせていただきたく思いますので、どうかこの愚物の命だけは許してやってくれませんか」
「え、ええ。特に罰を用意するつもりもありませんでしたが…」
「ありがとうございます殿下!」
「しかし、高音様は随分と優秀な配下をお持ちなのですね。我が国の暗部はそれなりに優秀だと自負していたのですが、まさかその警戒を超えてたった一人で機密文書にまで辿り着くとは思いもしませんでした」
「オホホホ。お褒めに預かりこうえグエっ!」
「本当にうちのバカが済みません!」
「いえいえ。それにしてもまさかあの黒い貴婦人様にお会い出来る日が来るとは思いもしませんでした」
「黒い貴婦人?」
『エリスの通り名の一つです。どうやらこの小娘は既にエリスの正体に気がついている様ですね』
マジかいな。
スカーレット帝国の暗部を従者にしてるとかなんて言い訳すれば良いんだよ。
これはもしかして詰んだか?
そう思って皆を連れて逃げる算段を立て始めたのだが、お姫様はエルセーヌさんの元へ寄って行って手を差し出した。
「あ、あの。もしよろしければ握手してくださいませんか? 私、黒い貴婦人様の大ファンなんです!」
「オホホ。もちろん構いませんわよ。ですがその前に、ご主人様に拘束を解く様に言ってくださいまし」
は?
なんだこの状況。
さっきまで不敵な笑みを浮かべて真剣な話をしていたお姫様が目を輝かせながらエルセーヌさんに手を差し伸べている。
え?
この状況がおかしいと思ってるのは俺だけか?
そう思って周囲を見回してみると、騎士さん達も含む皆が俺と同じ様な顔をしていた。
唯一ヒルデと呼ばれていたメイドさんだけが額に手を当てて嘆いている。
「あ、あの高音様…黒い貴婦人様の拘束を解いてくださいませんか?」
「あ、はい」
「オホホホ。礼を言いますわ姫殿下」
「いいえ。どうか私の事はセレスとお呼びください!」
「オホホ。それではセレス様。改めてありがとうございますわ」
「あぁ、あの黒い貴婦人様に名を呼んでいただけるとは!」
お姫様改めセレスちゃんはまるで大好きなアイドルに会えた年頃の娘の様にぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。
さっきまでの威厳とカリスマは完全に消え失せ、見た目相応の女の子にしか見えない。
「何これ?」
「さ、さぁ? これはちょっと私にも予想外だわ」
「はぁ、近衛は全員下がりなさい」
ヒルデさんがそう言うと、近衛騎士の人達がゾロゾロと部屋から出て行く。
ヒルデさんは最後の騎士が扉の前で敬礼をしてドアを閉めるのを確認すると、俺たちに向かって深々と頭を下げて謝罪した。
「申し訳ございません高音様、土御門様。我が主は幼少より黒い貴婦人に対して憧れを抱いておりまして、積年の想いが実際に黒い貴婦人を目の当たりにする事で爆発した様です」
「それは見れば分かりますけど、良いんですか?」
「確かにどこぞの魔族国家の諜報員であるという黒い貴婦人に対して憧れを抱くのは一国の姫としてはあまりよろしく無いのですが、姫様の唯一の楽しみが黒い貴婦人に関する情報を集める事でして…」
「あぁ、なるほど」
「しかし、これはどうしたものかしらね」
エルセーヌさんの差し出す手を掴もうとして、握手をする直前でエルセーヌさんに抱きしめられて顔を真っ赤にするお姫様を見ながら舞が見ながらそう言う。
………。
本当にどうしよっか、これ。
次回15日予定です




