凍った檸檬
ひとしきりパート練習した後、僕は彩音に連れられて音楽室に戻った。楽器の片付け方を教わり、楽器庫からユーフォのケースを持ってくる。
先ほどの騒ぎで部員達はほぼ全員僕のことを認識したらしく、「誰だこいつ」という目で見られることはなかったが、それでも好奇の視線を浴びていることは嫌でも分かった。
「あれが彩音の弟だよ」「え、めっちゃ似てる!」
などとヒソヒソ声で言われているのも聞こえてくる。とてもやりづらい。
一方で彩音も同学年の人達にいじり倒されていた。
「姉弟でパー練どうだった?」
「私彩音がお姉ちゃんやってるとこ見たいなー」
「あーもーうるさいな!!」
「怒んなって彩音お姉ちゃん~」
これ以上注目を浴びるのを避けるため、
僕は彩音の傍をソーッと離れ、マウスピースを洗いに踊り場の水道へ向かった。
(あ、あれも吹部の人だ、、)
水道の所には既に一人、マウスピースを洗っている女子がいた。
(、、1年だ、、でも知らない人だな、、)
C中の制服は、ブレザーのバッチの色と、上履きとワイシャツについている校章の色で学年を識別できるようになっている。
今の1年は赤、2年は青、3年が黄色だ。
彼女は背を向けていたのでバッジの色は分からなかったが、上履きの踵についている校章が赤色だった。
僕の足は階段の途中で止まった。
どうしよう。話しかけようかな。
いや、いつもの僕ならそんなこと考えもしない。自分から知らない人に話しかけようなんて狂気の沙汰だ。
言い過ぎだと思われるかも知れないが、一般的にコミュ障と言われる人々なら分かってくれるだろう。僕はまさにそういう人種だ。しかし、
(自分から行って友達作んないと、彩音以外に部活での頼りをなくすよな、、)
部活に入る前、僕はとりあえず同じパートの同学年の人と知り合って、そこから話しやすそうな人と仲良くなっていこうと考えていた。
それがパートに入ってみたら、同学年はおろか先輩も、生まれたときから知り合っている彩音しかいないのだから、僕の立てていた計画は何の役にも立たない。
このままいったらせっかく部活に入ったのに部活の友達も作れず、姉弟で楽器を吹くだけになってしまう。そんな家でもできるようなことをするために部活に入ったんじゃない。
せめて始めは男子から、と思っていたが、この最初のきっかけを逃してしまっては今までの僕と同じだ。
そうだ。ここで話しかけたら何か変わるかも知れない。
そんなことを数秒考えた後、僕は階段を降りて彼女の隣へ行き、水道の蛇口をひねった。
彼女は少しこっちを見たが、特に何も言わずマウスピースに視線を戻した。
ユーフォニアムのものと比べて小さく細いマウスピース。トランペットのものだ。
確か、うちのクラスの八朔という男子もトランペットパートだった気がする。彼女がどういう感じの人なのかクラスでまた聞いてみよう。
この女子は同じクラスではなかったが、同じ学年にいるだけあって見かけたことはあった。
踊り場には電気は無いが、窓から入る、外の街灯の光で、ぼんやりと白い肌が照らされている。胸元までかかる長い髪は、静かというか、暗い印象を与えた。
とにかく声をかけよう。
「あのさ、、」言いかけて僕は口をつぐんだ。
僕を見る彼女の眼差しが、あまりに冷たかったからだ。
その目を見ただけで僕の体は芯まで凍り付き、さっきまでの意気込みを失ってしまった。
(え、何で?僕何もしてないよね、、?)
しかし話しかけた以上何か話さないわけにはいかない。冷たい水でマウスピースを洗っているせいで、すっかり指先が冷えていた。僕は無駄に勢いづいていた数秒前の自分を呪いながら話を続けた。
「えーと、僕今日からユーフォパートとして入部した響 奏です。よろしく、、」
僕が話している途中で彼女がまたマウスピースに視線を戻したので、僕の声はだんだん小さくなっていった。
(ガン無視だ、、!)
沈黙の後、彼女がポケットからハンカチを取り出した。
ひたすらマウスピースを洗うことに専念している僕を尻目に、彼女はハンカチでマウスピースを拭きながら階段を上がっていく。
上の階の音楽室から、片付けている音や部員の声が聞こえる。
「あと5分、片付け急いでー」
「はい部長ー」
彼女は階段を数段上がったところで歩みを止め、ついに口を開いた。
「響君さ」
「は、はい!」思わず声が裏返る。やはり冷たく、厳しい口調だった。
「必要ないんだよね」
「、、え」
「だからさ、この部の邪魔だけはしないで」
そう言うと彼女はため息をつき、階段を上っていった。
「、、ちょっと待って、それはあの、どういう、、!?」
訳が分からず、僕は彼女を追おうと階段の方へ行ったが、もう階段を登って音楽室へと入っていく所だった。
3階の照明を受けて、階段に彼女の影が長く伸びていた。
(、、何なんだ、、)