序章――世界の終り
気が向いた時に読んでくれればなと思います。
――果てしなく夜に近い夕闇の中。
「我々は今、正に人類の危機に直面している」
――と、ある1人の男は言った。
研究者らしいその男の風貌は薄手のセーターにジーンズと言う軽装。だが、その上には研究者と辛うじて呼べる程度の、薄汚れた白衣を羽織っている。
齢は40代前後だろうか――? 男の表情はどこか冴えない。中年染みた無精ひげを生やしている。顎に手を添えて男は唸った。
日本本島から離れたこの孤島とも言える離れ小島にて、四方360度取り囲んでいる島の防護壁を貫く様にして轟音が鳴り響く。
――無論。否、この孤島に外側の世界から攻撃が加えられている訳ではない。外側の世界と言うのは――日本を含めた、アジア、アメリカ大陸、アフリカ、ヨーロッパ、北極、南極と言った、より大きな意味で言えばこの場所を含めない世界中の事を差しており、この絶海の孤島は世界地図や地球儀にも載っていないある意味特別な場所だった。
「――もう、我々に残された道はたった1つしかない訳ですね?」
最初の言葉の意図をどう捉えたのか? 傍にいたもう1人の研究者。その女性は思わず溜め息を吐いた。
中年の無精ひげを生やした男はそれに頷き、歪んだ顔で苦笑する。
「フ――フフ。皮肉な事にやはり我々『ウィア』の目論みは正解だったようだ。いくら世間様の世論がどう叫ぼうと、もう今の日本は数年すれば跡形もなく消え去るだろう」
轟音は――止まない。
ここは普通の孤島では無い。四方360度ひと回りして防護壁なるプレートが張られている時点で誰もがそう思う事だろう。
轟音は未だ鳴り響く。遠くから、地上で小さな核実験でもしているのかと思える様なそんな胸騒ぎに似た悪寒を覚える。
「しかし、我々の実験段階はまだ――」
「これは実験なんかでは無い」
女の言葉を中年の男が遮る。恐らく女の上司に当たるのだろう。彼はこのプレートに囲まれた孤島の施設。『イクスぺリメント』と呼ばれる建物の最上階に位置する展望台から皮肉に歪んだ視線を這わせて双眼鏡を使い、その見ている方角を指差す。
指し示した先には日本列島があった。ここはロシアとの境界線に位置する日本海側で、南に数十キロメートル離れた場所に本島があるのだった。
「――っ!」
見晴らし台から見えるそのおぞましい光景に女は思わず歯噛みする。数十年前まで誰もこんな事態は予想していなかった。
――なのに。
「あれは立派な病だ。そして最初に狂ったのが、他でもない。我々日本人と言う人種だ」
「『コンタギオン』――の事ですね?」
「……まあな。だが、俺が言った意味は少し違う。強いて挙げるなら比喩だ」
「――? どう言う事ですか?」
日本列島は真っ赤に染まっていた。まるで、第二次世界大戦の頃の米軍による空襲を遠くから見ているかの様な悲劇。
――今、日本は最悪の危機に瀕していると言っても過言では無い。
学術研究会『ウィア』が最初にそのウイルスの正体を世間に明かしたのはこの2人が会話している時から2年前。だが、既にその頃から日本を中心に世界は『コンタギオン』と言う病に蝕まれていた。
特にこれ以上、日本の『コンタギオン』による狂気を進行させない為にも学術研究会『ウィア』は焦って緊急事態に乗り出し、最終的に公の場に敢えて『コンタギオン』の正体を明かしたのだ。
――ウイルスの元凶は確かに存在する、と。
だが、それまでの世界の常識は所謂精神疾患の1つ。詳細に言えば、分裂病――現代の統合失調症に似たケースであると心理学者や医師、その手の研究者は分析していた。
統合失調症と言う病魔は特に珍しくは無い。100人に1人のケースで発病する心の病の事だ。
だが、とても複雑かつ奇異な精神病で、世界でも男女合わせて類型2千万人は患者がいると言われている。
病気の症状も様々で幻覚や妄想。幻聴等による被害が一般的で、具体的に言うならば、『世界の終焉が迫ってきている』と言う様な被害妄想から自分は『神』や『天才』であるなどと言う根拠のない陶酔に満ちた誇大妄想まであり、『何者かに操られている』と言ったものや、『自分の思考がテレパシーによって周囲に伝えられている』と言った社会の生活に支障をきたすものまであり、それにより自殺する者もいて統計として発表されている。
それまでの医学界は、この手の病気に毎日苦心して研究を重ねてきたが未だその病気の原因はハッキリしておらず、特効薬も開発途上にあったのだ。
そんな中、学術研究会『ウィア』は統合失調症の病について独自の方法と研究を重ね、途轍もない大発見をしてしまったのだ。
『コンタギオン』――と人々はその病気の事をそう呼んだ。ラテン語で『コンターギオ』、日本語に訳すと『感染』を意味する。
実際には『コンタギオン』は感染する事等無いのだが、世界中で広まっている現代精神病の一環としていつしかそう呼ばれる様になった。
しかし、それは結論から言ってしまえば病気でも何でもなかった。歴史に名を残す偉大な医者や科学者達がその原因を発見出来なかったのは、その当時の想像を遥かに超える役目を『コンタギオン』に罹患した人々、いや、この地球と言う人類の住む土地が果たしていたからだ。
偉大なる医者や心理学者達が、毎日苦心して研究をしても果たせなかった要因――。
――その全ては、人間の精神の中枢を破壊して現れた『レクティオン』と言う宇宙人の存在が原因だった――
「『コンタギオン』が争いの火種を生んでいるのではない。だが、『レクティオン』と言う存在との戦いに終止符を打たねばこの戦いに終わりはない。つまりその『戦い』そのものが病だと言う事だ。毎日、幾千人もの人々が死んでいくと言う事実そのものがな」
中年の男は思わず歯噛みして――
「その為に我々『ウィア』がこの島独自の研究養育施設『イクスペリメント』を立ち上げた事を肝に銘じておけ。世界でたった1つの優秀な『神呪』を組織化したしかも軍事機密でもない日本の気違い達に日常として知られているこの独房がな」
ではなぜどう言った経緯で『レクティオン』――宇宙人はこの地球と言う星に降り立ったのか?
別の言い方で言えば、学術研究会『ウィア』はどうやってその存在を探り当てたのか?
元々、彼等は統合失調症とは疎遠な消極的な研究機関でしかなかった。
それも全くの別ジャンル。地球と言う科学にメスを当てた寧ろ統合失調症患者とは無縁の立場だったと言っても良い。
だが、ある日を境にその世界は180度変化を遂げる。
「あの宗教戦争だっけか? どうもここにいる日本人の俺にはいまいちピンとこないんだが、あれも地球が放つ最後の自然の結晶体『テラ』が原因なのか?」
「私も日本人ですよ」女はくすりと笑みを零し、続けた。
「そして宗教戦争『イグネス』も日本独自の紛争です。原因は今の所不明――日本列島にいる我々の機密諜報員――スパイにでも後で聞いてみますか?」
女は嘆息して、男はそれに応じる。実に淡々とした口調で、さもありなんと。
「まあ、それも――生きていればの話だがな」
展望台の片隅にあった風見鶏の上に一羽のカモメが降り立ち、平和そうにカアカア鳴いていた。そして轟音がまた日本列島から静かな地響きを齎すと、その一羽のカモメはなぜかその日本列島の方角へと飛び立っていく。
赤く滲んだ夕闇の空にカモメは吸い込まれる様に消えていった。
まだほんのプロローグですが、読んでいただいた方々ありがとうございます。