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気休め

作者: 八尋

素敵な靴は、あなたを素敵な場所へ連れて行ってくれます。

 帰宅途中、聞こえるのは日暮れの街の喧騒と履いているパンプスが叩くアスファルトの硬く重い音だけだ。頭の中に靄がかかっているような、そんな感覚を覚える程に頭がボーッとする。さっきのはまずかったなぁと、会社での出来事を思い出す。

 キーボードのカチャカチャという無機質な音を鳴らしながら思い詰める。今日も残業だ。残業の理由は急に飛び込みの仕事がきたわけでも、繁忙期に入ったわけでもない、単純に私の仕事が遅いからだ。出来上がった書類を駆け足で上司に提出し、自席に戻り再びパソコンに向き合う。しかし、しばらくすると上司に呼び出された。

「こんな書類出してくるなんて、仕事に身が入ってないんじゃないの?」

 胸の鼓動がうるさいくらい早くなる、またやってしまった。

「内容には大きな間違いはないけど、ケアレスミスが多過ぎる。上司に提出する書類ならもっと確認してから出してよ。」

「本当に申し訳ございませんでした…。今すぐ直します…。」

 私は上司の顔を直視することができず視線を落とす。

「いや、今日はもういいよ。この書類はこっちで訂正しておくし、残りも急ぎじゃないんでしょ?おつかれさん。」

「え、はい…。お疲れ様でした…。」

 上司は視線をパソコンの画面に向け、早々と仕事に戻る。私は俯いたまま自分の席に戻り、荷物をまとめ帰宅の準備をするしかなかった。上司の発言は私の身を案じてのものなのか、単純に余計な仕事を増やしたくなかったからなのかは分からない。それでも早く帰れることはありがたかった。周囲に挨拶をして、そそくさと会社を後にした。

 普段ならば会社から歩いて十分程の在来線に乗って、五つ先の駅を目指す。しかし、私は目的の駅より一つ手前の駅で降りることにした。理由は帰って自分で食事を作る気力が湧かず、どこかで済ませようと思ったのと、気晴らしに散歩したかったからだ。このあたりは飲食店が立ち並ぶ繁華街だ。ここなら歩いている間にいい店に行き着くだろうという安易な気持ちで一人、トボトボと歩いていく。残暑が落ち着き、少し肌寒い風が肩にかかる髪を揺らす。しばらくするとBarと書かれた看板が目に入った。お腹を空かせて入るお店ではないが、お酒を飲むと少しは気が晴れるかもしれない、そんな思いが空腹に打ち勝って私は描かれている案内の通りに階段を下っていく。すると厚く黒っぽい木製の扉にたどり着き、その扉を開けた。扉に取り付けられたベルの小気味良い音を聴きながら中に入ると、ゆったりとしたjazzが迎えてくれた。照明はほのかで柔らかく、黒を基調とした机や椅子が落ち着いた雰囲気を醸していた。Barに入った経験は数える程しかないが、映画に出てくるような大人っぽいBarはこんな雰囲気だろうか。どこに座るか迷ったが、二人以上の席に座るのは忍びなく、カウンターの一番端の席に座ることにした。

「何になさいますか?」

 白髪混じりで丸眼鏡のマスターが落ち着いた声で私に問いかける。

「えっと…、じゃあシャンディガフをお願いします。」

 私は慣れない雰囲気からか、せっかく数多くあるメニューの中からつい居酒屋で飲み慣れたカクテルを注文してしまった。まだお洒落なBarが似合う女には成りきれないなと、自嘲気味に思った。

 その後四杯程カクテルを飲み干し、五杯目のグラスを眺めながら酔っ払っていることを自覚した。酔っ払えば少しはモヤモヤが晴れると思ったが、感覚を鈍らせただけでスッキリとはいかなかった。私は悪い大人だなぁ、仕事を早くに返されたのにこんな所で酔っ払っている。何でこんな事をしているのだろう。“こんな事”が指しているのが今の呑んだくれた状況なのか、仕事の事か。不調を察して帰してくれる上司、自分の不出来を助けてくれる同僚、この職場に何の不満があるというのか。こんな自問自答を何回も繰り返し、その都度答えるのを避けてきた。わかっているのだ、ただ自分の中で折り合いがついていない、納得できていないという事に。

 私は昔から絵を描くのが好きだった。小さい頃は周囲から将来は絵描きさんだね、なんて言われたものだ。高校生になっても絵が好きなのは変わらず、美術系の大学に進学した。そして四年間絵の勉強をし、イラストレーターになろうと思っていた。しかし、就職活動は難航、思ったようにはいかなかった。それでも私は夢を捨てきれず就職浪人になった。この頃から聞こえてくる周囲の声がいつまで絵描きなんて目指しているの?というものに変わった。その声に耐え切れなくなった私は就職浪人を断念し、今の会社に事務として就職した。小さな頃から絵を描き培ってきた知識や技術は捨て、丸裸で社会に放り出されることになったのだ。芸術や表現の世界は努力すれば報われるような甘い世界ではない、それくらいわかっている。美術系の大学に通っても、一般企業に就職するなんて話どこにでもある。しかし、よくある話だからといって私が大丈夫という理由にはならないし、今まで積み重ねてきたものを捨てて戦える程私は強い人間ではない。芸術への憧れを消せないまま、生きる為だけに生きている。生きる為だけにしている仕事に意味なんて求められない。

 残ったカクテルを一気に煽る。五杯目にグラスが空になり、靄がかった思考で次は何を飲もうかと考えていると、丸眼鏡のマスターが話しかけてきた。

「お客様、お疲れに見えます。あまりご無理をなさらぬように。」

 傍から見るとそんな風に見えるくらいひどい姿なのか。私は丸くなっていた背筋を伸ばし、できるだけ愛想良く返そうとした。

「すみません、美味しくてついつい飲み過ぎてしまいました。後一杯だけ飲んでお暇しようと思います。」

 丸眼鏡のマスターは新たに注文したカクテルを渡す際に、思いついたように私にこう言った。

「実は半分趣味も兼ねてサービスでお客様の靴磨きをしているのですが、いかがですか?」

 穏やかな微笑みを浮かべた丸眼鏡のマスターは私にそう問いた。

「靴磨き…ですか?私の履いてる靴はそんなに上等な物じゃないですよ?」

「持ち主の足元を守ってくれている靴に悪い物などありませんよ。これでも本職の方の元で学んだ事があるので、安心して下さい。」

 そう言われて自分の足元を見る。入社してからずっと使っている革のパンプスをよく見ると小さな傷や汚れがある。昔の洋画で靴を見ると履いている人がどんな人かわかる、どこから来てどこへ行くのかという台詞があった。このくすんだパンプスを見ると何となくそんな気がしてきた。買った当初はできるだけ手入れをしていたが、最近はめっきりできていない。この機会に専門の知識がある人に磨いてもらうのも良いかもしれない。

「じゃあ…お願いします。」

「では、少々お持ち下さい・」

 そうすると丸眼鏡のマスターはカウンターを若いバーテンダーに任せ、奥からアタッシュケース程の大きさの道具箱と小さな椅子を持ってきて私の前に腰かけた。

「では、靴を見せていただいてもよろしいですか?」

「はい…わかりました。」

 いくらストッキング越しとはいえ、赤の他人に素足を晒すのは少し気恥しい。主役は足ではなく靴なのだからと思い直し、私はパンプスを脱ぎ、差し出した。丸眼鏡のマスターはパンプスを手に取るとその表面をじっくり見つめ、微笑みながら私に言った。

「中々歩かれているのでしょうね、よく頑張られている証拠だ。」

「いえ…そんなことないですよ。むしろ歩くのが下手なだけなのかも。」

 冗談めかして返したが、割りと本当にそうかもしれない。

「例え足踏みであっても靴は磨り減ります、労ってやって下さい。」

 そう言いながら丸眼鏡のマスターは布にクリームを馴染ませ靴に塗っていく。

 足踏みかぁ…、あがいても、もがいても前に進めていない私には適当な表現かもしれない。では、いつになれば上手に歩けるように成るのか。

「マスター、どうすれば上手に歩けますか。」

 酔った勢いでついつい聞いてしまった。この賢そうなマスターなら何か手掛かりをくれるのではないか、そう思ったのだ。丸眼鏡のマスターは靴磨きの手を一度止め、再び磨き始めながら答えた。

「人間は赤ちゃんから成長するにつれて自然と無意識にでも歩けるようになるそうです。無意識にできる事ができなくなるという事は何かで頭が一杯になって、邪魔をしてるんじゃないですかね。」

「邪魔…ですか。」

「そうです。そんな時には一度気休めをするべきだと思います。気休めは馬鹿にできません、気休めを馬鹿にすると眉間に皺の寄った人間になりますよ。」

 ブラシを取り出しながら温和な声色で丸眼鏡のマスターはそう言った。私も難しい顔をしているのだろうか。

「さぁ、ここからが靴磨きの本番です。ブラッシングをするとみるみるツヤが出てきますよ。」

 楽しそうに靴にブラシをかけだした。どんどんくすんだ靴に光沢が出てきた、本当に魔法みたい。

「すごい…、新品みたいになりましたよ!」

「そうでしょうそうでしょう、ここで終わってもよいのですが、せっかくなのでサービスして最後の仕上げを。」

 丸眼鏡のマスターは道具箱から手のひら程の丸い容器と四角い酒瓶を取り出した。

「これは靴墨といいます、こっちの瓶はウイスキーです。これを混ぜて靴に塗ると更に光沢がでます。実はウイスキーが靴磨きに使えるっていうのを知って靴磨きを学び始めたんですよ。」

「まさかお酒が靴磨きに関わってくるなんて思いもしませんでした、意外な接点もあるもんですね。」

「何が何に繋がるかなんてわかりませんよ、無駄な事などありません。」

 無駄な事は無いか…。後生大事に持っている、いつ使うかわからない私の色んなモノ達も必要になる時がいつか来るといいなぁ。綺麗になっていく靴を眺めながら、自分まで綺麗になっていくような錯覚を覚えた。

「はい、これで終わりです。」

「ありがとうございました。とても綺麗です、ちょっと感動しちゃいました!」

「そう言っていただけると冥利に尽きます。さぁ、履いてみて下さい。」

 丸眼鏡のマスターは私の前にかしずき、優しく、丁重に履かせてくれた。普段ならこの行為にもドギマギしてしまうのが、今回はそれよりも私は靴に目を奪われた。長い間履いてきた靴にも関わらず、自分の顔が映り込む程光沢のでたそれは私の心をワクワクさせた。

「本当にありがとうございました。また来たいと思います。」

「えぇ、是非いらして下さい。お気をつけて。」

 そうして私は会計を済ませ、店を後にした。

 すっかり暗くなった道を、肌寒さを感じながら帰路についた。今日はいい出会いをした、この靴がその証拠だ。往路の時より少し軽く、少し高くなった靴音を響かせながら思う。根本的な解決なんてできていない、でもこの気持ちの高まりと心地よさは本物だ。マスターの言う通り気休めは大切だ。世の中には私となんか比べ物にならないくらい大変で、それでも快活に生きている人がいるだろう。きっとそんな人は気休めが上手いのかもしれない。皆なんだかんだ、休み休み生きているのだ。今度の休日は久しぶりに絵でも描いてみよう。この気休めはひ弱で不器用な私ができる数少ない現実への抵抗だ。

 ただの革のパンプスは、今の私には煌びやかにだって見える。

 


 初めて書いた小説です。小説はいいですよね。言いたいことも言えない世の中なのに、好き勝手言いたいことが言えるので。

 ようは頑張りすぎはよくないぞという事が言いたかったんです。

 書き始めた時が思いっきり新海誠にハマっていたので靴と歩けない女性が出てくるのもそのせいです。新海誠監督の言の葉の庭とってもいい作品です。

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