八羽
目が覚めると、空がだんだん明るくなっていくのが窓から見えた。ペンを持ったまま机に突っ伏して眠ってしまったようだ。そっとリビングに行き足音を立てずに外に出ると、まだ誰もいない道を走ってビデオ屋の前に来た。はあはあと息を整えながらガラス戸に近付いていく。
「あれ、お前」
背中から悠崎の声が聞こえた。振り向く前に肩を軽く叩かれた。
「早いな。まだ六時にもなってねえぞ」
急に涙が瞼に溢れた。悲しくて辛くて悔しい想いが、涙となって流れた。うわああっと大声を出し、恥ずかしいほど泣いてしまった。
「ちょ、ちょっと……どうしたんだよ。具合でも悪いのか?」
悠崎がおろおろしているが抑えきれない。崩れるようにしゃがみ両手で顔を覆った。
「大丈夫か?」
悠崎もとなりにしゃがみ、心配そうに覗きこんできた。平気だと伝えるために首を縦に振ったが、うまく動かせず泣き続けることしかできない。
「とりあえず中に入るぞ」
緊張している悠崎の言葉が耳に飛び込んできた。肩を抱かれるようにゆっくりと立ち上がり、二人でビデオ屋に足を踏み入れた。しばらくしてようやく泣き止むと、気持ちを落ち着かせ息を吐いた。
「……ごめん。泣いちゃって……。びっくりしたでしょ」
すぐに悠崎は頷き、もう一度心配する表情をした。
「びっくりしたよ。もしかして俺に会ったせいか?」
「違うよ。どうしてあなたに会って泣くのよ」
他人の前でこんな姿を見せたことはない。和華子にも泉にも肇にさえも、大声で泣くなんてことは一度もなかった。恥ずかしくて顔を合わせられず俯いた。
「生きていくのが嫌になったの」
「えっ?」
華弥の一言に驚いたようで、悠崎は目を見開いた。
「まさか自殺しようとか考えてたのか?」
「自殺じゃないよ。まだ死にたくないもん。だけど生きていくのが嫌になったの」
自分でも意味がわからない。返す言葉を探しているのか悠崎は横を向いた。
「……じゃあいいよ」
そっと呟き声が聞こえ、どくんと心臓が跳ねた。そして鼓動が速くなっていく。
「いいよって、もしかしてビデオ屋に出入りしてもいいってこと?」
「そうだよ。あんなに泣いて生きていくのが嫌なんて人に、だめだなんて厳しいこと言えねえよ」
まさか許してくれるとは思っていなかった。赤の他人は出入り禁止と話していた悠崎の顔がふと浮かんだ。
「でも私はあなたと友人には」
「なりたくないんだろ。いいよ別に。ただしもう泣くのはやめろよ。俺が泣かせたみたいじゃん」
真っ暗闇だった胸の中に小さな光が射しこんできた。
「……うん」
頷くと、悠崎も安心したように息を吐いた。
「喉乾いてねえか?」
いきなり話題が変わり少し焦った。首を横に振りながらはっきりと答えた。
「乾いてないよ。お腹は空いてるけど。昨日の夜、食べなかったから」
食べなかったのではなく食べられなかった方が正しいのだが、もちろん秘密だ。
「じゃあ今からコンビニで買ってくる。食べたいものとかあるか?」
「いらないよ。自分で買うから」
「でもバッグ持ってねえじゃん」
そういえばマンションから出る時に荷物を置いていった。とにかく和華子と離れたくて必死だった。空腹だが悠崎に金を使わせるのは気が引ける。
「いろいろ買ってくるから、好きなもの選べ」
「えっ……。いらないってば」
華弥が言い終わらないうちに悠崎は走って行ってしまった。
ビデオ屋の隅に膝を抱えて座った。なぜ突然優しくなったのだろう。大泣きしている華弥が可哀想だと同情したのだろうか。生きていくのが嫌だという言葉に驚いたのか。
悠崎は十五分ほどで帰ってきた。おにぎりやサンドイッチなど、十品以上がビニール袋に入っている。
「こんなにいっぱい……」
目を丸くすると、悠崎から注意するような言葉をかけられた。
「お前痩せすぎ。あと十キロは太らないと、ココツショソウショウになるぞ」
骨粗鬆症のことらしいが言えていない。本人は間違えているのに気づいていないようだ。
「でも全部食べ切れないよ。あなたも手伝ってよ」
「そのつもりでたくさん買ってきたんだよ。俺も腹ペコペコなんだよ」
ビニール袋から麦茶のペットボトルを出して華弥に渡すと、にっこりと笑った。まだ太陽はぼんやりしているのに、このビデオ屋の中が眩しいほど輝いた。コンビニの商品なのにとてもおいしく、久しぶりに満腹になった。
「ありがとう。私なんかのために……」
頭を下げながら言うと、その頭を軽く撫でられた。
「いいってことよ。俺たちの仲じゃねえか」
また友人扱いをされている。緩みかけていた気持ちを固くして、華弥は首を横に振った。
「あの、私たちは」
「赤の他人だって言いたいんだろ。お前は赤の他人だと考えてても俺はそう感じないんだよ。どんなに断られても諦める気はないからな」
諦めないとはどういう意味だろうか。動揺してしまい、答えが見つからない。
「変なことしようって企んでるわけじゃねえよ。もうスカートもめくらないし」
「だからパンツは関係ない!」
体が真っ赤に燃えた。悠崎はからかうように、にこやかに笑った。
この男は一体何者なのか。昨日は冷たい態度だったのに今日は穏やかで暖かい感じだ。くるくると表情が変わり予想不可能だ。
「……そろそろ帰らなきゃ」
あまり長居してはいけない。ゴミが入ったビニール袋を手に取りゆっくりと立ち上がる。
「もう帰るのかよ。まだいたって……」
「ママが起きてるかもしれないから」
本当は悠崎の言う通りビデオ屋に残りたかったが、和華子に怒鳴られる方が嫌だ。
「これからは遠慮なくここに来る。迷惑は絶対にかけないから、あなたも迷惑かけないでね」
寂しげな表情のまま悠崎は頷いた。華弥も心の中に大きな穴がぽっかりと開いた。しかしずっとここにいたら和華子にどこへ行っていたんだと詰問させられるに決まっている。自分の気持ちを無理矢理押し込み、ガラス戸を引いて外に出た。
マンションの近くで和華子が歩いているところを見かけて足を止めた。昨夜の出来事が蘇り、前に進めなくなった。全教科一〇〇点をとらないと遊んでいると疑われてしまう。勉強のためなら子供に食べ物も与えないという母親がこの世にいるとは驚きだ。そしてその悪魔のような人間が自分の母親なのだ。
和華子の姿が完全に消えたのを確かめてから息を止めてマンションのドアを開けた。あの悪魔がいた空気を吸いたくないからだ。素早く鞄を取ると、すぐに学校へ向かった。