七羽
新しい仕事が入ったのか、やり残した仕事に気付いたのかは不明だが、翌朝和華子の姿はなかった。ほっと一息吐いて、テーブルの上の書き置きを読んだ。
『物は大切にしなさい。もし壊れたら、必ず片付けること』
それなら和華子も華弥の心を大切にするべきだ。ぼろぼろに砕け散ったこの心を、どうしたら癒せるのか。すぐにびりびりに破りゴミ箱に投げ捨てた。
悠崎雅人の言葉が頭に浮かんだ。ここは自分の所有地だと決めていたが認めたくなかった。あのビデオ屋は誰のものでもなく、出入りできる資格なんて存在しない。スカートではなくズボンを穿いてから外に出ると、真っ直ぐビデオ屋に向かった。
ビデオ屋の手前で、悠崎雅人がガラス戸を引いているのに気が付いた。勢いよく走り、中へ入ろうとする悠崎の背中に貼りついた。
「うわっ、何だよ」
悠崎は振り向いて驚いた目をした。貼りついた状態のまま華弥は口を開いた。
「所有地だなんてあまりにも自分勝手すぎるよ」
「うるせえな。来るなって言っただろ」
「あなたの所有地って誰がいつ決めたのか教えてくれるまでずっとここに来るよ」
「どうしていちいちお前に話さなきゃいけないんだよ」
売り言葉に買い言葉で埒が明かない。まるで子供の喧嘩だ。無駄な言い争いはしたくない。指を差して声を張り上げた。
「納得できない。私だってこのビデオ屋が必要なの。あなたに迷惑は一切かけないから別にいいでしょ」
すると悠崎はきょとんとした表情に変わった。不思議なものを見る目つきだ。
「必要? どういう意味だよ」
「えっ?」
一瞬戸惑ったが、すぐに質問した理由がわかった。首を傾げながら悠崎は続けた。
「こんな寂れた場所なんか嫌だろ。幽霊とか出てきそうだし。どうして必要なんだよ」
確かにその通りだ。人がいない廃墟にいたいなんて普通の人は考えないだろう。しかしマンションにいると魂がえぐられるからとは言えない。
「……一人でいるのが好きだから……」
声を絞り出すと、悠崎は疑うように顔を覗き込んできた。
「ふうん……。本当かな」
「本当だよ。ママが」
いなければいい、と言いそうになり慌てて口を閉じた。和華子という母親がいることや、和華子に縛られ続けていることをばらしてしまったらまずい。悠崎は聞こえなかったフリをしているのか黙ったまま横を向いた。
「……あなたには絶対に迷惑をかけないし邪魔したりしない。お願いだからこのビデオ屋に出入りさせてよ」
やっと見つけた心のよりどころを失いたくない。だが悠崎はガラス戸を引き、中に入ってしまった。
これほど頼んでいるのに、なぜ聞き入れてくれないのか。悔しかったが仕方なくマンションへの道をとぼとぼと歩いた。
夜になると、和華子が疲れた顔で帰ってきた。こっそりとおまじないをしていると、ただいまの代わりに疑うような言葉を投げてきた。
「ご飯できてるの?」
「あっ、今から作るよ」
慌てて台所に入ると、いらついた表情でもう一度話しかけてきた。
「さっさと作ってよ。ママ仕事で疲れてるんだから」
こっちだって毎日疲れているんだと言い返したいのを飲み込んだ。ロボットのように口を開かず、手だけを動かした。
「ちゃんと授業受けてるの?」
同じことを何度もしつこく質問してくるのが嫌で嫌で堪らない。面倒だったので無視すると、さらに声を大きくした。
「確かテストがあったわよね? できたの?」
これも無視することにした。いちいち答えるのが馬鹿みたいだ。
突然和華子は立ち上がり華弥の部屋に向かった。そして鞄を持ってくると、テストの答案用紙が入っているファイルを取り出した。
「な……何してるの?」
驚いて目を見開くと、和華子の冷たいナイフが飛んできた。
「ちょっとこれどういうこと? 全教科一〇〇点とれって言ってるでしょ? 先生の話、聞いてないの?」
台所から出てファイルを勢いよく奪い取ると、華弥も睨み付けた。
「全教科一〇〇点なんか無理だよ。勝手に覗かないで」
「授業を受けていれば、一〇〇点くらい余裕でとれるわよ。毎日遊んでるんでしょ」
「遊んでないよ。ママ、いい加減に……」
言い終わる前に和華子は華弥の手首を握り、引きずるように部屋に連れ込んだ。
「今夜は夜ご飯なしよ! 一〇〇点がとれるように、ずっとここで勉強していなさい!」
叫ぶような怒鳴り声に、華弥は愕然とした。あまりの衝撃に体が小刻みに震えた。テストが全教科一〇〇点にならないと、食事さえもできないのか。
バタンっと大きな音で荒々しくドアを閉めると、「どうして華弥はこんなにもだめな子なの……」というお決まりの嘆きが始まった。うんざりして椅子に座ると、教科書とノートを机に置いた。空腹な上に気分が悪いので一つも問題が解けない。嘆きたいのは自分だと心の中で和華子に訴えた。