六羽
悠崎雅人を頭のてっぺんから足のつま先まで眺めた。背は普通の高校生にしては割と高く、髪は真っ黒で癖っ毛だ。白いパーカーと紺色のズボン、灰色のスニーカー。どこにでもいる男子高校生だ。表情はずっとにこやかなままで、それが本当の笑みなのか、裏に悪い企みがある笑みなのかは判断できない。
「じゃあこれから華弥って呼んでいいか?」
「これから?」
まさか華弥を友人扱いしているのか。きょとんとしながら悠崎雅人はもう一度言った。
「俺は悠でいいからな。雅人より悠の方が簡単だろ」
「そうじゃなくて!」
慌ててしまってうまく言葉が出せない。心臓の鼓動も速くなっていく。
「これからなんてないでしょ? 私たち、赤の他人なのに。これでもうお別れでしょ」
すると悠崎雅人はわがままな子供の声を出した。
「連れねえなあ……。パンツ見られておいて、赤の他人なんて考えてんのか」
「パンツは関係ない!」
早く忘れたいのに、また顔が火照ってきた。次からは絶対にスカートは穿かないと決めた。
「とにかく、私はあなたと友人にはなれません。これからもありません」
「硬いこと言うなよ。知らない人じゃなければ仲良くしてもいいって」
「知らない人であってもなくても、あなたとは友人になりたくありません。女の子のスカートを平気でめくるような非常識な人と付き合いたくありません」
ていねいに頭を下げたが、悠崎雅人は頷かずに目つきを鋭くした。真っ直ぐ向けられた悠崎雅人の眼差しに緊張した。
「じゃあ、もうここには来るなよ」
「えっ」
意味がわからず戸惑っていると、悠崎雅人はもう一度言った。
「ここは俺の所有地なんだよ。友人でもない奴が出入りされるのはお断りだ。赤の他人の岡野華弥は、このビデオ屋に入る資格はない」
そんな話は聞いていない。むっとして華弥も声を大きくした。
「いい加減なこと言わないで。あなたの所有地なんて誰がいつ決めたのよ。資格がないなんて自分勝手すぎるよ」
気に障ったらしく、悠崎雅人は黙ったままビデオ屋の中に入ってしまった。その場に取り残された華弥は、仕方なくマンションに戻ることにした。
お昼ご飯用のサンドイッチをコンビニで買ってからマンションに向かい、誰もいないリビングのドアを開けた。
同い年の男子と会話したのは生まれて初めてだ。スカートをめくられて泣いたり、よく知りもしない人間に名前を教えたのも初めてだ。そして突然の友人扱い。
「あそこに行くには、あの男と友だちにならなきゃいけないのか……」
近くに置いてあったチラシの裏に、『ゆう崎まさと』と書いてみた。漢字はわからないが恐らく「崎」はこれだろう。みんなからユウと呼ばれると言っていたので、もしかしたら学校の人気者なのかもしれない。
ふう……とため息を吐くとバッグの中の携帯が鳴った。泉かな、と思い目をやると、体が一気に冷えていった。和華子のメールアドレスだった。嫌な予感がして無視しようと考えたが後で怒られるに違いない。びくびくしながら受信メールを開いた。
『今日は仕事が早く終わりそうだから、家に帰れるわよ』
たった一文の、適当な内容。ほったらかしにしていて悪いと謝る気持ちも感じられない。華弥を幸せにするために努力をしているなんてよく言えたものだ。
携帯を閉じて、両手で胸を押さえた。和華子に負けないように、心が折れないようにするおまじないだ。何年か前に華弥が作った。もちろん効き目など全くない。
時間が刻一刻と経っていく。いつ帰って来るのかと嫌な汗が額に滲む。マンションのインターホンが鳴ったのは、二十時を少し過ぎてからだった。どくんと心臓が跳ね、何を言われても倒れないように身構える。いつもと同じだ。
「久しぶり」
和華子の抑揚のない声が耳に入った。目を逸らし華弥も「久しぶり」と答えた。どう見ても母と娘の会話ではない。
ソファに寝っ転がりながら、和華子は大袈裟に息を吐いた。
「はあ……疲れた。最近、忙しくて眠る暇もないわ。……ちょっと、なに突っ立ってるのよ。お茶くらい淹れなさいよ」
子供を召使いとでも思っているのか。言われたように華弥は台所に入り、ポットとティーパックを取り出した。
「無理しないでよ。仕事も大切だけど、休みも大切だから」
完全に感情を失くして心配するフリをした。これで和華子の機嫌が少しはよくなると思ったが、逆効果になってしまった。じっと見つめられていることに気付き、はっと目を合わせてしまった。
「華弥はどうなの?」
「どうって?」
心の中が真っ暗闇になっていく。和華子の目線がさらに強くなる。
「勉強に決まってるでしょ。きちんと授業受けてるの?」
「受けてるから、学校から何も言われないんだよ。普通に過ごしてるよ」
動揺を隠しながら答えたがこれだけでは満足しない。和華子は気色が悪いほどしつこい性格なのだ。
「来年は受験生なんだからね。志望校はすでに決めてあるのよね?」
手が止まった。まだ二年生だしと大学については一切考えていなかった。急いで答えを探したが見つからず、完全に蛇に睨まれた蛙状態になっていた。
「……まさか、山井さんと同じ大学に行く気じゃないでしょうね? 華弥は有名な大学に通わなくちゃいけないのよ。あんな馬鹿な子と華弥が同レベルなんて、ママ恥ずかしくて外歩けないわ」
怒りで持っていたポットを床に落としそうになった。関係のない泉まで悪く言われるとは。それに和華子は泉の成績を知らないのに、勝手に馬鹿と決めつけられたのが許せない。
「もう山井さんと別れなさいよ。あんな子と一緒にいたって何の意味もないし、むしろ馬鹿が移るわよ。嫌でしょ? クラスの中には、もっと賢くてお家がいい子だっているわよ。三年生になったら、山井さんと付き合うのはやめなさい。わかったわね」
わなわなと手が震え、湯呑みをシンクに叩きつけた。ものすごい音がして、小さな湯呑みは粉々に砕け散った。和華子も驚いたように目を見開いた。
「ちょっと、気を付けなさいよ! その湯呑み、お土産でもらった……」
「私、もう寝る」
和華子の言葉を遮り、きっぱりと言い切ると、早足で自分の部屋に逃げ込んだ。