五十七羽
それからしばらくの間、和華子が怒鳴り声をあげることはなかった。頭に来ても睨みつけるだけで終わりだ。仕事から帰る時間は遅く、行く時間は早くなり、お互いに顔を合わせる機会も減った。
しかし和華子がネタ帳をどう感じているのかは気になった。ただのメモだと誤魔化したつもりだが、中には映画作成の文字が書き込まれている。もし読まれていたらと想像すると、ぞっと冷や汗が流れた。悠と閑古屋がなくなったら、後に残るのは悪魔に傷つけられ続ける地獄の日々だ。
不安になっていると、悠が電話をかけてきた。
「母さんに変なことされてないか?」
「うん。とりあえず今は平気。ネタ帳についても聞いてこないし。仕事で忙しいから、聞く時間がないからかもしれないけど」
「そうか。ただのメモだって信じてくれるかな」
ごくりと唾を飲み込んだ。動揺しないように、はっきりと言い切る。
「あの悪魔、しつこいし、答えないとご飯食べさせないとか言うの。血も涙もない母親だよ」
すると突然悠は黙った。どきりと緊張の糸が体に絡みついた。
「……どうしたの?」
そっと言うと、くぐもった声で悠は呟いた。
「もし全部ばれたら、俺たち別れちゃうのかな」
「えっ……」
驚いて携帯を落としそうになった。慌ててぎゅっと握る力を強くした。
「母さんが交際を許してくれなかったらどうする? そのまま離れ離れになるのか?」
返す言葉が見つからず、華弥も黙った。いろいろな迷いが胸に溢れていく。
「俺たちが出会ってから今までの出来事が、母さんに無理矢理引き裂かれて、全部水の泡になるのかな。二度と会えなくなったら、どうすればいいんだ……」
ここまで弱々しい悠は初めてだ。華弥の心もゆらゆらと動いて止まらない。
「だ……大丈夫だって」
「けど、もうすぐ高校卒業だろ。大学生になっても閑古屋に来れるのか?」
確かに悩んでいる余裕は日に日に少なくなっている。タイムリミットは目前まで迫っているのだ。
「馬鹿馬鹿しいよ。妄想したらだめだよ。変な妄想したらその通りになるって言ったの悠じゃない」
「馬鹿馬鹿しいか。……そうだな。俺、馬鹿だな。ごめん、勉強の邪魔して」
華弥の返事を待たず、一方的に悠は電話を切ってしまった。邪魔じゃないと言いたかったのに、と切なくなった。
受験なんてどうだっていい。悠のそばにいられるなら何もいらない。欲しいのは悠だけだ。しかし未来を知っているのは神様だけで、現実は甘くない。
「独りぼっちになりたくないよ……」
ベッドに横たわり、現実逃避するため目を閉じた。意外にも睡魔はすぐにやってきた。
雨音で、長い眠りから覚めた。すっかり夜になり、慌てて起き上がった。電気をつけてカーテンを閉めようと窓に近付き、黒い雲を眺めた。雨は二人を結ぶのか、それとも引き離すのか。『うたかたの雨』は作り話なので、必ず失恋するとは考えられなかった。
「悠に会いたい……。ずっとそばにいたい……」
独り言を漏らし、勢いよくカーテンを引いた。
翌朝は、すっきりと晴れた青空だった。早起きしてしまい二度寝をしようと目をつぶったが、眠気がなくそのまま部屋から出た。すでに和華子は仕事でいなかった。制服に着替え顔を洗いながら、今日は学校には行かず閑古屋に行こうと決めた。悠はもちろんいないが、久しぶりに心のよりどころがどうなっているのか知りたい。
いつも通り閑古屋の周りには雑草しかなかったが、その雑草も華弥にとっては大切な存在だ。ガラス戸を引き中に入る。椅子に座り、カウンターの上の埃を見た。その埃の量で、どれほど人がやってきていないのかわかった。変わらない景色に、少し心がゆったりと落ち着いた。
ここで初めて人を好きになり笑顔を取り戻し将来の夢を想像した。思い出がたくさん詰まった、決して失くしてはいけない空間だ。奇跡を起こす不思議な場所だ。
「……神様……。どうか私の願いを叶えてください……。悠しかいりません。悠をください……」
祈りを捧げて一時間ほどぼんやりした後、ゆっくりと外に出た。
マンションに戻るわけにはいかなかったので、もんじゃ焼き屋に行ってみた。しかし残念ながら休みだった。仕方なかったが、ふと実保の秘密場所の小さな喫茶店を思い出し、覚えている限りの道を歩いて何とか辿り着いた。
窓を覗くと、一人でお茶を飲んでいる実保がいた。そして実保も華弥の方に視線を移した。驚いた表情をして、「おいで」というように手招きした。
「まさか華弥ちゃんが来るなんてびっくり。学校じゃなかったの?」
「実保さんにもう一度会いたくなったんです。もんじゃ焼き屋に行ったらお休みだったから、もしかしたらここに来ればいいかなって思って」
「そうなの。悠くんも一緒だったらよかったね」
実保も悠に会いたいのだと感じた。三人でお茶を飲んで楽しいひとときを過ごす。いつかそんな日がくればいいのだが、可能性は低い。
「ママとはどうなった?」
声を小さくして顔を寄せてきた。首を横に振り、華弥も固い口調で答えた。
「悪い方にいってます。まだ悠はばれてないけど、時間の問題だって考えてます。高校卒業も大学受験もあるのに、毎日不安でいっぱいです」
「本当にママは許してくれないの? うまくいったら」
「いきません。そんなに簡単な相手じゃないから。前も話したけど、大人のパパだって勝てなかったんです。高校生の私たちが敵うわけありません。弱気になっちゃいけないんだけど……」
はあ、とため息を吐いてから、がっくりと俯いた。
「子供とか作っちゃおうかな……」
独り言を漏らすと、実保は悲し気な表情に変わった。
「だめよ。私みたいに罰が当たったらどうするの。絶対にしちゃだめよ」
無理矢理店を始めたせいで、実保は大事な恋人を失ってしまった。華弥も思い直し、こくりと頷いた。
「そうですよね。私、馬鹿ですよね。すみません」
言ってから、あることを思い出した。鞄から携帯を取り出し、テーブルの上に置いた。
「もしよかったらメールアドレス交換してくれませんか。いつでも話ができるように」
「あ、いいわよ。ちょっと待ってね」
実保も携帯を取り出し、電話番号とメールアドレスを登録した。またほんの少し心が強くなった感じがした。しかし結局問題の答えは見つからなかった。
ずっと同じ話をしていてもつまらないので、違う話題に変えることにした。
「そういえば、悠と決めたんですけど、もんじゃ焼き屋で卒業パーティーしてもいいですか?」
ぱっと明るい笑顔で、実保は「そうねえ」と返事をくれた。
「せっかくの卒業だもんね。あと大学合格のパーティーもしましょう。おいしいもんじゃ、たくさん作ってあげる」
にっこりと微笑む実保に癒された。本当に母親が実保だったら、どれだけ素晴らしい人生になっただろうか。
喫茶店を出ると、実保が何かを渡してくれた。恋愛成就のお守りだった。
「華弥ちゃんと悠くんが結ばれるように、お祈りしてきたの。これくらいしかできないけど、よかったらもらって」
優しい心遣いに感動の涙が瞼に溢れた。ありがとうございます、と頭を下げると、そっと髪を撫でてくれた。




