五十四羽
その日は、朝から少し何かがおかしかった。やけに早く起きてしまい、もう一度寝ようとしても心臓がどきどきと興奮していて眠れない。結局うつらうつらしただけだった。
台所で水を飲み、朝食を作るために冷蔵庫に手をかけたが、力が入らない。足もふらふらで、疲れているのかいないのか不安定な状態だった。食欲も一切沸かず、ゆっくりと制服に着替えて簡単に顔を洗った。鞄を手に外に飛び出し、真っ直ぐ学校に向かって歩くが、その間も変だった。耳に何も音が入ってこないのだ。周りに人はいるのに全く無音だ。自分の足音さえ聞こえない。
教室のドアを開けると、ようやくクラスメイトの声が聞こえた。「おはよう」と言われ、華弥も「おはよう」と返したかったが、今度は声が出なかった。
そのまま席に着くと、泉が心配そうに近づいてきた。
「どうしたの? 具合悪いの?」
「……ううん。ちょっと寝不足なだけ」
「そう? あんまり顔色よくないけど……。具合悪くなったら、あたしに言ってよ」
「うん。ありがとう……」
小さく頷くと、泉は他のクラスメイトの方に歩いて行った。
寝不足ではない。具合が悪いわけでもない。だが確かにいつもとは違う。気持ちがふわふわとして、霧がかかったように心が隠れてしまっている。もしかしたら受験に緊張しているのかもしれないが、なぜ今日に限ってこんな気持ちになるのかは不思議だ。
しかしその答えはすぐに出た。昼休みになって、華弥がぼんやりと空を眺めていると、泉が肩を叩いてきた。
「ねえ、あたし、好きな人できちゃった」
「好きな人? バイトで?」
「バイトじゃないよ。街で偶然見かけて、一目惚れしちゃったの」
特に気にせず、ふうん、と呟いて、また空を眺めた。
「本当かっこいいんだよ。今度写メ撮ってくるね」
「いいよ。私は泉の好きな人とは関係ないから」
少しむっとした表情で泉は立ち去った。華弥の態度が気に入らなかったのだろう。泉が誰と恋愛をしようが勝手だ。すでに華弥には悠がいる。それに今は受験が最優先だ。
その数日後、にんまりと笑いながらもう一度泉が話しかけてきた。
「ほら、これ。写メ撮ってきたよ」
携帯を渡しながら、泉はうっとりする口調で話した。その瞬間、華弥の全身に雷が落ちてきた。そこに映っていたのは紛れもなく悠の横顔だった。強い眼力、黒い真珠。間違いなく悠だ。
「どう? かっこいいでしょ。めっちゃあたしの好みのタイプだよ! 絶対あたしの彼氏にしてやるんだ!」
いいだろう、と自慢する表情で笑い、さっさと携帯を閉じた。
「ついにあたしに彼氏ができるんだ! 悪いけど、お先に幸せになっちゃうね。ごめんね」
ふふん、と鼻を鳴らす泉の声が槍となって心に突き刺さる。がくがくと小刻みに手が震え、足から力が抜けた。
「どうしたの? あたしに彼氏ができて羨ましいのかな?」
まだ告白もしていないのに、すっかり恋人同士になっている。もう一度ふふん、と笑うと「じゃ、あたしの恋、ちゃんと応援してよ」と言ってスキップしながらその場から立ち去った。
まさか悠が泉に見つかってしまうとは夢にも思っていなかった。冷や汗が流れて止まらない。もう悠とはキスまでしたのだ。しかし事実を明かしてはいけないと二人で約束したので、黙るしかなかった。
悠が泉を選んだら、華弥は地獄に突き堕とされてしまう。泉の方が付き合いやすいし悪魔に苦しめられることもないし、街を堂々と歩ける。普通だったら彼女にするには泉を選ぶだろう。華弥を捨てて泉に乗り換える可能性も絶対にないとは言い切れない。もちろん悠を信じているが、人間はころころと気持ちを変える生き物だ。
いきなり大きすぎる問題が降りかかってきた。その日は全く勉強など頭に入らず、帰っても食事を摂らずにベッドに寝ていた。
緊張と焦りで体ががんじがらめになる。速くなる心臓を抑えて何度も深呼吸をした。泉は華弥より服などもおしゃれだし、いつもにこにことしていて母親を嫌ったりもしていない普通の子だ。どうか泉に悠を取られませんように、とひたすら祈っていた。
それからは、ほとんど眠れない夜を過ごした。学校でもマンションでも教科書を読んで気を紛らわせながら、必死に自分自身に落ち着けと言い聞かせていた。
衝撃の日からしばらく経った。朝になり重く痛む頭を起こす。泉に会いたくないので休もうかなと毎日考えるが、和華子に怒鳴られるのは嫌だった。とぼとぼと歩いて教室のドアを開けると、華弥の席に泉が座っていた。近づいてそっと声をかける。
「泉、席間違えてるよ。どいてよ」
しかし反応がなく、俯いたまま黙っている。
「ねえ、泉」
「ちょっと話があるの」
低い唸るような声だ。下を向いているのでどんな顔をしているのかわからず戸惑った。
「なに?」
「ここでは言えない。ついてきて」
立ち上がり泉は早足で廊下を歩いた。遅れないように華弥も早く足を動かした。
完全に人がいない教室の前で立ち止まり、くるりと振り返った。恨むような目つきで、ぎっと睨んでいる。
「どうしたの? 何が」
「どうしたのじゃないでしょ。この嘘つき女。彼氏なんかいないなんて嘘、よくつけるね」
冷や汗が流れた。なぜそのことを知っているのか。
「あの男の子に告ったの。一目惚れした男の子だよ。付き合ってくれるって思ってたのに、俺には彼女がいるからって断られた。名前は聞かなかったけど、絶対それ華弥でしょ。私は一生恋愛と無縁だなんて、言ってることとやってること全然違うじゃない」
何となく想像できた。しかしやはり悠と付き合っていることは言わないと決めた。
「失恋ばっかりしてるあたしを、彼氏とイチャイチャしながら嘲笑ってたんでしょ。また振られてるって馬鹿にしてたんだ」
その一言にいらついた。華弥は悠とイチャイチャしていたのではなく、夢を叶えるために映画作りをしていただけだ。泉を嘲笑ったことも一度もない。
「酷い。酷い女。やっぱりあんたは悪魔の子供だわ。悪魔の血が流れてるんだ。親友をそんな酷い目に遭わせるなんて……」
「親友?」
自分の体が氷のように固まっているのを感じた。恐ろしいほど心が冷たく凍っている。
「悪いけど、私、泉のこと親友って思ってないよ。親友っていうのは、すごく相手を想いやって喜んだり泣いたりしてくれる人だよ。けど泉は、どれほど私がママに傷つけられて悩んでいても慰めるフリだけで全く気にしてなかったじゃない。答えられそうにない相談は、あたしに聞かないでよって逃げるし、どこが親友なんだか。酷いのは泉の方でしょ。最後まで相談に付き合ってくれたことなんか一度もないのに、勘違いしないでほしいんだけど」
一気にまくしたてると、泉の顔色が真っ青になった。しかし華弥は怖くも何ともない。
「ちょうどいいや。縁切ろう。相性悪いんだよ、私たち。私にはすでに想ってくれる大事な人がいるから泉はいらない。このこと、他人に話したら許さないから。じゃあ、さよなら、泉」
「ちょっ……待ってよ……」
引き止められたが無視して後ろを振り返り、泉を取り残して早足で教室に戻った。




