四十六羽
「華弥、起きろ」
肩を揺すられ、重い瞼を上げた。いつの間にか眠っていたらしい。窓の外はすっきりと晴れた朝になっていた。
「あ……寝ちゃった……」
苦笑いしたが、悠は笑わずに真顔で俯いていた。
「俺も寝ようかと思ってたんだよ。でも……」
口調が弱弱しくなっていて少し驚いた。悠がこんな姿を見せるのはほとんどない。
「でも……どうしたの?」
悠はゆっくりと華弥に視線を移し、大きく首を横に振った。
「おかしな夢見たんだよ。ふわふわ空中に浮いてて、この世から消えちゃったみたいな感じ。真っ白で何も話せないし動くのも無理だし、わけわからないんだ。どうしようもなくて頭の中で助けてくれって叫んだら、華弥の声がどこかから聞こえたんだ。ここはどこなんだろうって……」
以前、華弥もそのような夢を見た。悠と全く同じ場所に行ったのだ。やはり閑古屋は違う世界に存在していて、中に入った人間はみな不思議な体験をする。廃墟で人がいないからかは知らないが、これは確かだ。
「もし華弥の声が聞こえなかったら、俺あのままだったのかな。夢から覚めなかったのかな」
「さすがにないよ。夢から覚めないなんて……」
言いながら背中に冷や汗が流れていた。もし夢が覚めなかったら、果たしてどこに行くのか。
「……ねえ、もし、今こうして閑古屋にいるのが夢だったら、悠はどうする? 私に会ったことも初デートも全部幻だったら、どうする?」
無意識に疑問が漏れた。ぞっとする表情で、悠は恐る恐る答えた。
「怖すぎるだろ。これが幻だったら、現実はどこだって話じゃないか。変な妄想してると本当にその通りになるからやめろよ」
「そう……だよね。私っておかしな妄想しちゃうから……」
嫌な予感が胸に広がった。この幸せなひとときが全て幻で、目が覚めたら一瞬で消えてしまうなんて絶対に考えたくない。まさに『うたかた』ではないか。
「さて、じゃあお開きにするか」
悠が大声を出して立ち上がった。不安な気持ちを振り払うように、やけに明るい口調だ。ふう、と息を吐き、華弥も立ち上がった。
外の雑草が雨に濡れて太陽の光で輝いていた。人工的ではなく自然が作った光は、とても美しい。
「あっ、いけね。図書館に自転車置きっぱなしだった」
はっと顔を上げると、昨日起きた出来事が一気に蘇ってきた。図書館に行って『うたかたの雨』を読み、キスをして抱きしめ合って、マンションでおにぎりを食べてデパートに行き、ワンピースと靴を買ってもらった。そして喫茶店で甘いものをたくさん食べた。泉に馬鹿にされて気分を悪くしたり、自分が周りの女子より劣っていると空しくなったが、天に昇る想いだった。
「じゃあ図書館に行こう。盗まれたりしてないよね」
「あそこを知ってるのは俺と華弥だけだし、盗もうというくらい立派な自転車じゃないから残ってるはずだよ」
雨で濡れた道を並んで歩き、図書館に向かった。
ドアの前に、ぽつんと自転車が置いてあった。当然だがサドルが濡れているので跨げない。その時、ふとあることに気が付いた。
「何か変じゃない?」
「えっ?」
鍵を外しながら、悠は目を丸くした。
「この自転車。形とか色とかじゃなくて、イメージが昨日と違ってる感じがしない?」
わけがわからないらしく、悠は首を傾げた。
「イメージって……。別に普通だろ」
「私にはそう見えるの。閑古屋と図書館と同じ。……人に使われなくて、置き去りにされてるってイメージ」
「人に使われなくて……」
何となく悠も理解したようだ。さらに華弥は続けた。
「人が使わなくなったものって、まだ動くのに壊れたって扱いじゃない? 閑古屋も図書館も、まだ使えるのに人が手放したから廃墟にされてるでしょ。どんなものでも、人が使わなくなったら全部ゴミと一緒になるの。人って、すごく勝手な生き物だと思うよ」
閑古屋のビデオは、もう映らないかもしれないが、雨宿りや心のよりどころになってくれる。図書館には『うたかたの雨』があったし、まだ充分使用できる。自転車も悠が置きっぱなしにしたせいでそれらの仲間になりかけていたが、忘れられずに済んだ。
「うーん。まあ閑古鳥が鳴くっていうのも人が集まらないって意味だもんな。新しいものばっかり欲しがって、昔のものはばっさり切り捨てるとかもったいないよな」
「みんな、もっとよく考えればいいのに。本当にだめになるまで、ずっと持っていればいいのに」
華弥が悠と出会えたのは、閑古屋を大事な存在だと思ったから引き合わせてくれたのかもしれない。ほんの少しでも必要とされたのが嬉しかったのだ。
「早く帰るぞ」
ぼんやりとしていた頭が鮮明になり、慌てて頷いた。
マンションの近くで別れた。誰もいないのでもう一度抱きしめ合い、にっこりと笑って手を振った。姿が見えなくなってからドアを開けた。
洗面所の鏡の前に行くと、ワンピースを着ている自分にうっとりした。
「すごい……。こんなの初めてだ……」
声が出てしまったが聞く人間はいないので、恥ずかしいという気持ちは起きなかった。さらにぐっと鏡に顔を近づけると、自然に笑顔に変わった。
悠の魔法はとても強いと改めて感じた。悠のおかげで、白黒の自分がカラフルな普通の女の子に変身できたのが嬉しくて堪らなかった。悠の力で華弥はどれほど成長できたのかわからない。
「悠とまたデートしたい……。もっともっとデートしよう……」
届くわけないが、小さく呟いて部屋に入った。デートがこんなにも楽しい出来事だとは、予想していなかった。




