四十二羽
華弥の就寝時間は、だいたい二十三時だ。いつものようにベッドに入ろうとすると、メールの着信音がした。開くと悠からだった。
『明日、ヒマだったらデートしないか?』
どくん、と胸が高鳴った。そういえば恋人とはデートをするものだ。まさか自分がこんな貴重な体験をするとは思っていなかった。すぐに『行きたい』と送信すると『じゃあ、昼過ぎに閑古屋で待ってるぞ』とメールが返ってきた。
携帯を閉じ、はあっと酔いしれる息を吐いた。ようやくこの時がやってきたのだ。ずっと待ち焦がれ憧れていた、愛する人との幸せなひととき。想像するだけで楽しくなってしまう。
「……ちょっとおしゃれしようかな……」
和華子に禁じられているため化粧はできないが、可愛らしい服は探せばあるはずだ。せっかくの初デートなのだから、普段通りではいけない。華弥が持っているのは灰色や黒などの地味なモノトーンばかりだったが、何とか明るいイメージのブラウスとスカートを見つけられた。ベッドに戻り速い胸を抑えながら、しっかりと眠った。
朝起きてから、自然に笑顔になって仕方なかった。食欲も沸かず、とりあえず水を飲んで朝食は終わらせた。昼過ぎと言っていたが、支度ができるとそのまま外に飛び出した。心が弾みスキップして鼻歌を無意識に歌った。
しかし閑古屋に近付くにつれて浮かれた想いが緊張に変わっていった。どんな顔でどんな話をすればいいのかと必死に考えながら、閑古屋の中で体を固くしていた。
しばらくしてガラス戸が開く音が聞こえて、ひゃあっと声を上げて驚いた。振り向くと、拗ねたような表情の悠が立っていた。
「ひゃあって……。別におかしなことしようなんて気持ちないぞ」
「違う違う。ちょっと考えごとしてたの。ごめんね」
頭を下げると、すぐに悠は笑顔になった。
「自転車で来たから、後ろ乗れ。二人乗りは禁止されてるとか、ムード台無しなこと言うなよ」
「言わないよ。もうミホとユウトの恋愛じゃないってわかってるもん」
「そうか。それならいいけど」
一つ頷いて悠はサドルに跨った。以前この自転車に乗る時、切ない想いでいっぱいだったが、今はうきうきと期待だけが溢れている。本当に本当にデートなのだと嬉しくて叫びそうになった。
「どこに行くの?」
走りながら聞くと悠は即答した。
「図書館だよ。うたかたの雨、まだ五ページしか読んでないんだ」
「えっ? 五ページ? さすがに遅くない?」
確かに文字が小さくて、ページにびっしりと書かれているし、虫メガネでも使わないとはっきりとわからないほど読みづらかった。
「まあ、時間はたくさんあるから、ゆっくり読んでいけばいいね」
そう言うと悠は子供っぽい口調で答えた。
「だよな。まだ俺たちって付き合ってほとんど日が経ってないし、デートだって今日が初めてだし。何年かかってもいいよな」
腕を首に絡ませて、華弥も耳元で囁いた。
「ずっとそばにいられるんだもんね……」
しかし聞こえなかったのか、悠は反応しなかった。耳元なのだから聞こえないはずはないのに、無視したのかと少し不思議に感じた。
図書館の中に入り『うたかたの雨』を抜き取って並んで座った。
「そういえば悠って学校行かなくて大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないけど、デートが最優先だろ。華弥だって学校行ってないんだろ」
ふと、情けなく弱った担任教師の姿が蘇った。
「……私、この間、久しぶりに学校に行って、担任に他の学校行ったらどうですかって怒鳴っちゃった。あの担任、ママにチクったり性格悪くてクラスメイトからも嫌われてたの。いなくなってよかったってみんな言ってる」
邪魔な存在は、さっさと潰した方がいい。少し驚いた表情で悠は口を開いた。
「へえ……。何ていうか女って、性格悪そうな奴が多いってイメージあるよな。いじめとか嫉妬とか男にもあるけど、女の方が残酷な感じがする。俺の担任は、かなり面倒くさがりで完全に生徒任せなんだよ。お前たちで好きにやってろって言うし。すごく自由でありがたいよ」
映画を観に授業をサボったり、華弥を寮に連れて行ってもばれなかったりしなかったのは、そのおかげかもしれない。華弥は今までいじめに遭ったことは一度もなかった。もしいじめられたとしても、厳しい悪魔にずっと傷つけられてきたから痛くもかゆくもないのだ。
「いいなあ。私も男だったら、悠の学校に通えるのに……」
呟くと悠は苦笑いして答えた。
「男になったら、恋人同士になれないじゃん。ただの友人に変わっちゃうだろ」
「あっ、そっか」
ははは、と華弥も笑って、改めて自分には恋人がいるのだという言葉が胸に響いた。
「じゃあ、学校の話はこれで終わりだ。デートに学校は関係ないし、ムード台無しだからな」
本をめくり悠が物語に入ってしまったので、仕方なく華弥も黙った。
ちらりと目を見つめて、美しい黒真珠にうっとりした。華弥だけしか知らない秘密の宝石。汚れも何もない神秘の宝石だ。
「悠って目が綺麗だね。目が綺麗なのって、心が綺麗っていう証だよね。黒い真珠みたいで、欲しくて堪らないよ」
囁くと、ぽんっと頭を軽く叩かれた。
「あのな、どうしてそういう恥ずかしいことを平気で言うんだよ。いちいち緊張させるな」
「いいじゃない。素直に想いが伝えられるのは悠だけだって意味だよ」
言い返すと、いきなり唇を重ねてきた。体から力が抜けて、めまいを起こしそうになった。
「……悠だって、充分恥ずかしいことするじゃん……」
「いいだろ。本気で惚れてるっていう意味と、これ以上恥ずかしいことを言わないための口封じだ」
からかわれても嫌な気がしないのが不思議だ。ゆっくりと華弥も悠の唇に触れた。自分からキスをするなど絶対にできないはずなのに、大胆な性格に驚いた。
「この黒真珠、私のものでいいんだよね?」
真っ直ぐ目を向けて聞くと、悠は大きく頷いた。
「華弥のものでいいんだよ。俺も華弥以外の人間にあげたくないし」
よかった、と安心してぎゅっと抱き付くと、優しく髪を撫でてくれた。




