三十八羽
雨の音を聞いていると、とても心が落ち着く。まるで違う世界に飛んでいってしまったみたいだ。そこが幸せな場所なのか、不幸になる場所なのかは、神様にしかわからない。
はあ、と息を吐いてベッドに寝っ転がった。今までこんなにも難しい問題があっただろうか。いつもテストで満点をとっている華弥でも解けない。やはり恋愛は、ある意味恐ろしい出来事といえる。
突然抱き締められて、驚いたが嬉しかった。距離がまた縮んだと感じたからだ。しかし悠はただの演技の練習としか考えていなかった。つまり華弥に興味がないということだ。現在最優先するべきことは映画作りだが、もう少し悠の想いを知りたい。そばに寄り添いたい。切ないという言葉があるが、まさに今の状態ではないだろうか。
「……私って馬鹿だなあ……」
独り言が漏れた。何を期待しているのだと自分を笑った。悠が望んでいるのは映画だ。華弥ではなくミホと恋愛をするのだ。ただの練習。演技の練習だ。勘違いをしてはいけない。
悶々として仕方がないので、そのまま目を閉じた。完全に雨と同化して、違う世界に飛んでしまいたい。
「そういえばお前、寝ながら変なこと言ってたぞ。ここはどこなんだろう……とか」
ふと悠の声が胸に浮かんだ。怪我の手当をしている時に聞いたのだ。閑古屋にいると不思議な気分になる。一人が怖くなり、自分の心をコントロールできなくなる。そして雨が余計に見づらくさせるのだ。大事なことが何かも、この想いの意味も、全てが霞んでしまっている。
遠くで雷が鳴った。あの夜も雷が鳴っていた。もし悠に出会わなかったら、華弥の人生はどうなっていただろう。もちろん答えなど思いつかないので、ただ睡魔が訪れるのを指一本動かさずに待っていた。
はっと目を開けたのは翌朝の九時過ぎだった。学校には行かないので慌てたりしないが、これほど長く眠ったのは初めてだ。
洗面所に向かい、疲れてやつれた自分の姿を見てショックを受けた。できれば悠には可愛い女の子の顔を見てもらいたい。ばしゃばしゃと洗って台所に行き、朝食を作ろうと冷蔵庫の中身を探っていたが、急にもんじゃ焼きが食べたくなった。バッグを掴み勢いよく外に出て、覚えている限りの道を歩き、やっともんじゃ焼きの店に辿り着いた。
入り口でうろうろとしているとドアが開いた。振り返ると女店長が笑っていた。
「いらっしゃい。あら、今日は彼氏と一緒じゃないのね」
「か……彼氏?」
ぶんぶんと首も手も振り後ずさった。まさかそんな風に考えていたとは驚いた。
「彼氏じゃないです。全然……。彼氏じゃありません……」
「そうなの? いつも仲良くしてるから彼氏だと思ってたんだけど、勘違いだったのかな?」
「はい、勘違いです。彼氏じゃないです。私に彼氏なんて……できるわけありませんから……」
口調が弱弱しくなり、無意識に俯いた。寂しさと切なさで胸が張り裂けそうだ。しかし実際に恋人などいないのだから仕方ない。
「まあ、とにかく入って。とっておきのもんじゃ、焼いてあげるからね」
華弥がもんじゃを焼けないのも知っていたのか。まるで友人のような態度で、ほっと安心した。
「あの男の子、いつも一人で来るのよ。友だちがいないのか、誰も連れて来ないの。だからあなたが一緒にいた時はびっくりしたよ。いつもいつも一人なんて、変わってるわよねえ」
女店長が話し始めたので、華弥も口を開いた。
「秘密場所なんですよ」
「秘密場所? ここが?」
意外そうに目を丸くした女店長に、ゆっくりと頷いた。
「秘密の場所があるとわくわくするって言ってました。自分しか知らないところがあると自慢したくなるって。だから誰にもこのお店を教えてないんだって。私も一人でいる方が好きですよ。たまに怖くなったりするけど」
そう、と優しく微笑み、女店長はまた話し出した。
「確かに一人でいるっていいわよね。……実は私には恋人がいたの。その恋人と一緒にこのお店を始めたんだけど、半年もしないうちに事故で死んでしまったの。けど、一人でも頑張ろうって、死んでしまった彼のためにもこうしてもんじゃを作ってるのよ。最初は心細かったけど、一人で過ごすのもまた違う生活になっていいかなって前向きになれた」
いつも明るく客の相手をしている人が、悲しい出来事を経験しているとは夢にも思っていなかった。いつまでもそばにいてくれると信じてた人が消えるという辛さを、この人も知っているのだ。瞼に涙が溢れて、頬を伝ってぽろぽろとテーブルに落ちた。
「だめよ。もんじゃは泣きながら食べるものじゃないわよ。おいしいものを食べる時は笑わなきゃ」
女店長はそっと呟いて、できたてのもんじゃを目の前に置いた。こくりと頷いて笑い、もんじゃを口に入れた。
満腹になり、バッグから財布を取り出すと、女店長は首を横に振った。
「お金はいらないわよ」
「えっ……でも……」
「いいのいいの。おしゃべりに付き合ってくれて嬉しかったのよ。最後まで聞いてくれてありがとう」
女店長の心遣いに、胸がじわじわと暖かくなっていく。この人が母親だったらよかったのに、という悔しい気持ちも生まれた。
「あの、私たち映画を作ってるんですけど、さっきのお話を加えてもいいですか?」
「映画作り?」
「はい。誰にも観てもらわない、二人だけの映画です」
不思議そうな顔をしていたが、すぐに頷いた。
「映画を作るなんて素敵ね。私の話でよかったら、ぜひとも使ってほしいな。でも、誰にも観てもらわないのはもったいなくない?」
「いえ。私たち、一人でいるのが好きだから、他人に邪魔されたくないんです。二人きりの秘密の映画なんです」
しっかりと言い切ると、女店長は黙って微笑んだ。きっと想いが通じたのだろう。
「じゃあ……ごちそうさまでした」
頭を下げると優しく撫でられた。穏やかな声が耳に入る。
「次は男の子と一緒に来てね。待ってるからね」
そう言って女店長は店に戻った。華弥もくるりと後ろを振り返った。
いつまでもそばにいると信じていた人が消えるなんて辛すぎる。それが父親であっても野良犬であっても恋人であってもみんな同じだ。そして傷ついた心を癒してくれるのは、ただ一人しかいない。




