三十二羽
校門が開いたのを確認し、忍者のようにするりと中に入った。音を立てずに教室に向かうと置きっぱなしの鞄を掴み、元来た道を走った。そのままマンションに戻り、リビングではなく風呂場に行った。濡れた制服を脱いで洗濯機に放り投げると、シャワーを浴びて体の汚れを洗い流した。しばらくお風呂のありがたみを感じてから制服に目を向けた。替えの制服はないので学校は休むしかなく、泉に電話をかけた。「はい」という声が聞こえる前に、抑揚のない口調で話す。
「今日、学校行けなくなったの。悪いけど先生に伝えてくれるかな」
「それどころじゃないよ。華弥がいなくなって、あたしたち探しまくったんだから。先生もめっちゃ怒ってるよ。華弥がサボるなんて、一体何が」
ぶちっと一方的に電話を切った。ただ「わかった」とだけ答えればいいのに、といらついた。泉と余計な話なんか面倒くさくて続けられない。ふう、とため息を吐きながらベッドに横たわった。
相手を想うだけで恋は生まれるのだと知った。しかし悠の言う大事なことが見えないためこれ以上進めない。大事なこととはどういうものなのだろうか。
また駅前の映画館に行き、今度は一人で『うたかたの雨』を観た。少しはヒントがもらえるかもしれないと思ったが、相変わらず内容はありきたりで伝わって来ない。さらに途中で具合が悪くなりまだ終わっていないが映画館から出た。
目がくらくらし、周りがぼんやりとしている。額に手を当てるととても熱く、風邪を引いているのに気が付いた。どしゃ降りの中でベンチに座っていたせいだ。マンションに帰ろうと焦ったが、足が前に踏み出せずその場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか?」
近くの人が声をかけてきたが答えられる余裕などなく、必死に首を縦に動かした。もちろん全然大丈夫じゃない。
「でも……」
もう一度話しかけられたが、朦朧として聞き取れず地面に倒れてしまった。そこから先は気を失って何も覚えていない。
ふと目を開けると、柔らかい壁に顔をうずめていた。やがてはっきりと誰かの背におぶさっているとわかった。驚いて起き上がると、その背中が悠のものだと気が付いた。
「暴れるなよ。落っこちるぞ」
「ご、ごめん。でもどうして悠におんぶされてるのかびっくりして……」
「びっくりしたのは俺だよ。駅前で女子高生が倒れて気を失ってるって聞いて、試しに見に行ったら華弥だったんだから。歩いてる人たちみんなに注目されてたぞ」
その光景を想像して恥ずかしくなったが、過ぎてしまったのだから仕方ない。
「で、こうして悠におんぶされてるのね……。どこに行くの?」
「俺の寮だよ」
どきりと冷や汗が流れた。悠は男子校に通っている。女の華弥が入るのは禁止なはずだ。
「寮に行ってから病院に連れて行くから」
「待ってよ。寮って男の子だけでしょ? 私が入ったらまずいよ」
しかし悠は首を横に振った。
「気絶してる人間を見捨てる奴なんかいないだろ。閑古屋はベッドも何もないから寮が一番いいんだよ。ばれなきゃ大丈夫だよ」
「ばれなきゃって……。絶対見つかっちゃうよ」
うまく隠れる可能性はゼロだ。そもそもルームメイトはいないのか。
「マンションに帰るよ。一人で歩けるよ。もう降ろして」
「嘘つけ。マンションに帰っても看病する人がいなかったら苦しむだけだぞ。薬もない病院にも行けないじゃ、ずっと治らないままだろ」
否定できなかった。こんなにも酷い風邪では、いつ元気になれるかわからない。かといって悠の寮に行くのも気が引けた。女子を男子寮に連れてきたと、悠がクラスメイトからどんな目で見られるか不安だ。
仕方なく黙って背中に顔をうずめた。柔らかく暖かい、いつもの体温がじんじんと胸に溢れていく。
しばらくして大きな建物の前で立ち止まった。もう空は夜になっていて、窓から光と笑い声が漏れている。
「着いたぞ」
緊張する口調で悠が呟き、華弥も身を固くして頷いた。学生みんなに隠れて部屋に行くなど二人にはできるのだろうか。
「どうしよう……。平気かな……」
「安心しろ。もしばれても逃げれば問題ない」
「逃げるって……どこに……?」
これ以上言葉を続けられなかった。不安がさらに熱を上げていく。腕をしっかりと掴み、悠は力強く言った。
「絶対に放すなよ」
ずんずんと玄関に近付き、その後ろから体に貼りつくようにして華弥も歩いた。靴を履き替えていると、廊下から明るい声が飛んできた。
「あれ、どこ行ってたんだよ」
はっと驚いて靴箱の陰に慌てて移動した。
「散歩だよ。どうだっていいだろ」
「こんな真っ暗になるまで散歩かよ。もう飯食ってねえのお前だけだぞ」
「そ、そうか。部屋に戻ったら食べに行く」
悠の指が小刻みに震えているのが申し訳なかった。雨に打たれなかったら、風邪など引かずに迷惑もかけなかった。
「じゃあな、早く食いに行けよ」
軽く会話を終わらせて、男子はくるりと振り返った。気付かれずに済んで、ほっと安堵の息を吐いたが、この後どうなるかは知らない。隠れる場所がなかったら確実に見つかる。
「私、やっぱり」
「ここまで来たのにマンションに帰るなんて馬鹿なこと言ったら許さないからな」
遮られてしまい口を閉じるしかなかった。同時に華弥を看病したいという想いも伝わった。
奇跡的に廊下に出ている生徒は少なく、話しかける人もいなかったので、駆け足で部屋に向かった。はあはあと荒い息を整えているとベッドに寝かされた。
「うまくいっただろ。俺ってあんまり友人いないし、ほとんど浮いた存在だから、こうやって他人を連れて来ても周りにばれないんだよ」
ははは、と笑っていたが、華弥は笑い返せなかった。入ったはいいが出る時はどうするのかと思ってしまう。
「大人しく寝てろよ。薬とかいろいろ買ってくるから待ってろ」
「えっ、ちょ……ちょっと……」
起き上がり引き止めようとしたが遅かった。ゆっくりと横たわり汗を拭いながらくらくらと回る目で天井を眺めた。
突然大きく心臓が跳ねた。悠がいなくなって寂しいと感じているのだ。今まで一人でいるなど当たり前で、むしろ一人でいる方が気楽だったはずなのに、悠に会ってから孤独が怖くなった。ただ悠が部屋から出て行っただけで恐ろしいほどの孤独感で胸がいっぱいになっている。
そういえば喧嘩をして怪我をした悠も、独りになりたくないと言っていたのを思い出した。傷ついた自分を癒すためには誰かがそばにいなくてはだめだと考えるように変わったのだ。
「早く帰って来て……」
涙が瞼に溢れ、頭から布団を被り声が漏れないように泣いた。
三十分ほどで悠は戻ってきた。薬と水のペットボトルを持っている。
「効かないかもしれないけど、気休めってことで買ってきた。もう少し熱が下がったら病院に行こう」
うん、と小さく頷き、にっこりと微笑んだ。きちんと笑みになっていたかわからないが、先ほどの孤独感は消えていた。




