二十六羽
しばらく閑古屋に行くのはやめようと決めた。悠がどんな想いでいるのか気になって仕方ないが、落ち着いて話ができるまで待った方がいい。ただしネタ集めは必ず行った。幸いなのは和華子がマンションに帰ってこないことだ。どこにいるのかは不明だが、探そうという気は皆無だ。
そんな日々が十日ほど過ぎ、いつものように宿題をしていると雨に気がついた。窓に近付き曇り空を見つめながら悠の顔を頭に浮かべた。
突然体が動き、傘も持たずに外に出た。濡れた道を全力疾走し、閑古屋の前で足が止まった。ゆっくりとガラス戸を引いて中に入ると、異様な空気に包まれた。喘ぐ息もどこかから聞こえる。緊張しながら一歩一歩進み、壁に寄りかかって座っている悠を見つけた。
「悠!」
慌てて駆け寄りそばにしゃがみ込んだ。
「……華弥……」
弱弱しい口調で冷や汗が噴き出す。わけがわからず動揺しかできない。制服はよれよれで頬には殴られた痣があり唇が切れて血が滲んでいる。
「どうしたの? 何があったの?」
はあ、と大きく息を吐いてから悠は呟いた。
「喧嘩したんだよ。学校の奴らと」
「喧嘩?」
驚いて目を見開いた。悠が喧嘩をするような性格だとは思っていなかった。
「もっと現実見ろよとか言って、ネタ帳捨てやがったんだ。殴り合いの喧嘩なんか初めてだよ」
なぜわざわざ他人の夢を邪魔するのだろうか。怒りと憎しみが押し寄せてきた。
「捨てられたって……古いのも?」
「うん。全部」
返す言葉がなかった。ショックで泣きそうになるのを必死に堪えた。
「私、消毒液とか絆創膏とか買ってくる」
立ち上がったが悠に手を掴まれてしまった。
「いいよ。雨降ってるし」
「よくないよ。ちゃんと手当しないとバイ菌とか入っちゃうよ。すぐ戻って来るから待ってて」
しかし悠は首を横に振り、むしろ掴む力を強くした。
「母さんに会ったらどうするんだ」
「ママには絶対に会わないよ。心配しないで」
それでも放してくれず、仕方なくその場にしゃがんだ。
「お願いだから手当させて。変な病気にでもなったら、映画作りだってできなくなるんだよ」
すると悠は俯いたまま独り言を漏らした。
「華弥がそばにいてくれるならそれでいい」
「えっ?」
こんな状況なのに、心臓が跳ねどきどきと鼓動が速くなった。
「そばに……って……? どうして……」
「独りになりたくないんだよ。ネタ帳も捨てられて喧嘩もして、俺もうボロボロなんだよ」
瞼に涙が溢れた。華弥も何度も心を壊され、その度に誰かに助けてもらいたいと願ってきたので、とてつもなく気持ちがわかる。
「どこにも行かないで、ここにいてほしいんだよ……」
ぽろりと涙の雫が落ちた。悠のとなりに移動し肩に頭を乗せた。
「どこにも行かないよ。ずっとそばにいるよ」
囁いてから目を閉じた。雨が悠の辛く悲しい想いを表すかのように勢いを増した。微かに泣いている声が胸に響いていた。
眩しいほど白い場所に漂っていた。周りには何もなく何も聞こえない。まるで自分が世界から消え、透明な存在になってしまった感じだ。
「華弥」
ふいに誰かに呼ばれ、声のした方に顔を向けた。
「朝だぞ」
「え……? 朝……?」
ゆっくりと目を開き、慌てて頭を起こした。
「ご、ごめん。寄りかかっちゃった。重かったでしょ」
「重くはないよ。身動きはできなかったけど」
暗くてわからなかったが、距離がとても近過ぎてどきりとした。雰囲気で無意識に肩に頭を乗せてしまった。
「あっ、怪我の手当しなきゃだめだね」
痛々しい悠の姿に気付いて立ち上がると、今度は引き止められなかった。薬局で一通り買うと走って閑古屋に戻った。
「しみるかもしれないけど、それは喧嘩した自分が悪いんだから我慢してね」
「わかってるよ。二度とあんなことはしないから」
「本当にやめてね。私がどれほど心配したか教えてあげたいくらいだよ」
悠は反省するように苦笑いし、痛いとも言わずに素直に手当を受けた。
「そういえばお前、寝ながら変なこと言ってたぞ」
「変なこと?」
少し驚いて目を丸くすると、悠は頷いてから続けた。
「ここはどこなんだろう……とか。どんな夢見てたんだ?」
しかしよく覚えていないので答えられなかった。そもそも夢というのはほとんど記憶に残らないものだ。
「知らないよ。寝言聞かれるなんて恥ずかしいな……」
すると悠はゆっくりと遠くを眺めるように天井を見上げた。
「華弥の気持ち、何となくわかるよ。ここって外とどこか違うんだよな。廃墟とか閑古鳥が鳴いてるとかもあるかもしれないけど、普通の人は入れない特別なところって感じる」
悠の口からそんな言葉が出てくるとは思っていなかったので驚いた。確かに閑古屋は華弥と悠だけが知っている二人きりの場所だ。
「私たちが出会ったのも閑古屋だしね。ずっと昔から私たちが来るのを待ってたみたい。もし取り壊されてたら他人のままだったんだもんね」
偶然がいくつも重なり今このような関係になった。全ては予想外れの大雨と廃墟と化したビデオ屋が始まりなのだと改めて思っていた。




