幻想文学という枠組みの中で、私がやりたいこと。
私はよく幻想文学と銘打つものを書いております。一般的にはファンタジーと同じものと解釈している方も多いと思いますが、私が幻想文学と呼ぶものは、もっと実験的なものです。
広いくくりで言うとローファンタジーでしょうか。私が書く幻想文学には、現実と非現実。そこに存在するものと、存在しないもの。本当に存在しているものと、本当は存在していないけれど、存在していると思い込まされているもの。その全ての境目を取り去って、混ざり合った状態として描きたいんです。
よく作中で試みられているのは、内在性と外在性の壁を壊すことです。
現実なのか、幻想なのか。果たしてそれが本当に存在しているのか、存在していないのか。それはあくまで分かりません。という体で描く。
シュレディンガーの猫が、「生きている」と「死んでいる」が混ざった状態のように。内在的と外在的が入り混じった、とんでもなくあやふやな存在を描きたいです。
なんでこんなに分かりにくいことをするのか。
でも、存在しているか、存在していないか分からないというのは、私たちの身の回りに溢れているような気がします。
記憶や想い出。感情。身の回りの世界のすべて、本当に存在していると思っていても、それは自分がそう感じているからです。
私たちは、自分という存在を使って、周りの存在を知覚します。
自分がいなくても、周りは存在しますが、自分はその存在を知覚することはできません。このとき、自分の中に周りは存在しないことになってしまう。
ここで、自分に対して、周りが存在するように知覚させるような力があったとしたら。
例えば、ここにコップがあります。
何故コップがあるとあなたは考えるのですか? コップが見えたから。
では、私があなたに、コップの映像を見せて、そこに手を伸ばせば、コップの形を感じ取れるように触覚を刺激する。限りなくガラスの質感を再現できるように。でも本当はそこには何もありません。
あなたはそんなこと知る由もないわけですから、コップがあると考えるのです。
そして全てのからくりがばらされた今、あなたの中でコップは存在しなくなってしまった。
私が書こうとしている幻想文学の基本的な考え方は、こういうものです。
内在性と外在性の壁は、限りなく薄いです。
この考え方を小説の中に忍ばせるようになったのは、「ヒデリノアメ」が最初ですかね。そのときはまだ実験的な試みでしたが、「琥珀」を書いて、このスタンスは確立できたように思えます。
受け入れられにくいとは思います。
何せわかりにくいです。表現が曖昧になって、落ち着きを失ってしまうのが悩みどころですし、遠回しな表現を多用することになります。
それでも、私は幻想文学と銘打つものには、この書き方を貫き通していきたいです。