二つの指輪、一つの絆
俺は二つの指輪を手に取った。それはユキがいなくなった瞬間から、俺の手に舞い戻ってしまった宝物と、それ以来嵌められることはなくなった銀の輪。そして、これが俺のもとに戻ってきてから、一歩も踏み出せないでいる。
ユキがいなくなってからちょうど二年目、八月の夜。俺は大きな墓地を訪れた。彼女に逢うことはできないとわかっていても、新しい一歩を踏み出すきっかけは見つけられるかもしれない、そう思って。
夜の墓地というのは、夜道以上に不気味さと静けさに満ちている。そんな中にあるユキの眠る場所は、他のものに比べると真新しく、墓地の少し奥に位置していた。そこにたどり着いた俺は、『ユキ』に向かって話しかけた。
「大切なものって、失ってから大切だったことに気付くんだな……」
小さな粒が頬を伝った。
「ごめんな、幸せにできなくて……。ごめん」
その時、俺は謝り続けることしかできなかった。
それから何日も何十日も、ユキのところに行った。何も話すことはなくても、大学帰りに彼女のところにだけしか行かなくなってから二ヶ月くらいだろうか、俺に変化の現れる出来事があったのは。
満天の星と、満ち足りた月が微笑みかける夜。墓石の前に立っていると、人の気配が漂っていることに気付いた。ただ、その気配は郷愁をまとった安心感にも似ていた。それに続いて、懐かしい香り……。
震えていた。振り返りたいけど、恐かった。
「ハル……」
俺の名前を呼んだ、紛れもないその声。感情よりも先に、身体が動いた。
「ユ……キ?」
まさか、本当に……。
振り返ると、懐かしい笑顔が俺を迎えた。秋の冷たさをはらんだ風になびく黒髪は、一緒にいた時と変わらず、それよりも濃い色彩の綺麗な瞳も同じだった。
「わたし、ハルとずっと一緒にいられて、とっても幸せだったよ。後悔だって、したことない。でもね、自分を責めないで欲しいの」
俺の頬を伝うのは、自分の感情と共に溢れ出すものだった。握り締めた俺の左手の中では、二つの指輪が擦れ合う音を立てた。
「わたしは事故に遭って、あなたに逢えなくなったけど、いつもあなたを怒らせてばかりだったわたしに、バチがあたっただけ。ハルのせいじゃないの」
ユキの話を、俺は半分も聞いていなかった。俺は無意識に伸ばした自分の腕の中に――いつもしていたように、彼女を導いた。
「いっぱい泣いちゃいなよ」
その言葉を発したのはユキだった。俺は自分で彼女を抱きしめておきながら、泣いちまったんだ。そして今度は、彼女が俺の首筋に細く白い腕を回した。
「わかってる。わたしが寂しかっただけで、一生懸命に友達関係を築くあなたを止めちゃいけなかった。他人を滅多に信用できないあなただったのに。いけないのは、わたしなのよ」
そう、あの時。俺はユキに、
「行かないで」
と、何度も言われていたにも関わらず、彼女を置いてけぼりにして友達と遊びに行っていた。友達よりも、ユキは大切だったはずなのに。
それに短気を起こした俺を恐がったユキは、家を飛び出して……
どれだけ自分が気の短い子供だったか、今でもわかる。あんなことがあったのに、俺はユキに甘えている。
「いい子、いい子」
頭を撫でられる自分が子供に戻った気がした……いや、今も子供のままだと思った。
天使の抱擁は今も変わらず、心の安らぎを得られる唯一の場所だった。ユキだけだ、今も俺に優しくしてくれるのは。
――大学を卒業したら……結婚しよう。
彼女がいなくなる何日か前、俺はこんなことを言ったばかりだった。それなのに、突き放すようなことをしていた自分に今でも腹が立つ。
そして今も、同じ言葉を口にしていた。そして、彼女の薬指に指輪を通す。
優しい笑顔が、悲しげな困った顔に変わり、ユキは一歩踏み出した。彼女の髪の色とは、対照的な色をしている肌が、月明かりに照らされる。
「ありがとう……、ありがとう……」
そう言った彼女の、漣が揺れるような輝きを放つ瞳も、その月明かりに映し出された。
――泣いてる?
「でもね、わたしにはもう、時間がないの。ハル、あなたには……まだ時間があるのよ」
透き通った彼女の声。今となっては、天使に話しかけられていることを思うと、現実を受け入れられなくなる。
「なぁ……ユキは、俺と一緒にいて――」
逆に抱きしめられていた俺は、彼女の手を振りほどいて、墓場の地面に仰向けで寝転び、瞳を閉じた。今までずっと泣いてたけど、もう涙が俺の頬を濡らすことはなかった。
何故なら、もうわかっていたからだ。もう一度月の光を感じる頃には、彼女がいなくなっているということを。
「さっきも言ったじゃないの」
だけど、もう一つ、聞きたかった。
ユキに聞きたかったんだ。
「……幸せだよ。今でも」
その声が俺の鼓膜を刺激する。だけど、もうこの目が潤むことはなかった。
「ユキ……俺はまだ――」
<ハルは、もう新しい一歩を踏み出せたじゃない>
――まだ、あるんだよ。たまには、最後まで話を聞いてくれ。
頭に響いた言葉に答えた俺は、目蓋を開く。だがそこには、月と星の白濁色をはらんだ夜空はなく、東の空に、太陽が半分だけ顔を覗かせていた。
――夢?
口に出したのか、心の中で呟いたのか、それは俺にもわからなかったけど、今度は口にだして言った。
「夢だろうと、現実だろうと、何だっていい」
――俺は今でも、ユキを愛しています。
――ユキは……今でも、俺を愛してくれていますか?
左手に違和感を覚えてそれに目を移すと、その答えを待つ必要がないことがわかったんだ。一つの絆。その片割れだけが朝の日差しを受けて輝いた……
――Ende――