天使
七
待ちたいと望んだ直後、唐突に視界が開けた。
翳んだ現実世界。
寝かされた美弥子の周りには見たこのない難しそうな機械が並び、何人もの白衣を着た大人たちが動き回っていた。
そしてその中に、たった一人、切り離されている少女の姿。
緩やかなウェーブの掛かった長い髪の彼女が、穏やかな表情で壁際に佇んでいた。
あなたは、誰。
問いかけたい言葉は声にはならず、ただ、視線だけが重なる。
「無理に喋ろうとしない方がいいわ。あなたがいきなり喋りだしたら、その周りの医師や看護士さん達が驚くから。…あなたは心の中で思えばいい。あなたの声は、私には聞こえているから」
その言葉に応じて、あなたは誰かと、もう一度、繰り返す。
彼女は微笑んだ。
「私は天使よ」
その答えに、咄嗟の返事が思いつかない。
自らを天使と名乗った彼女は、美弥子のそんな心境を察しながら続ける。
「翼も、頭上の輪もないけれど、人間風に言えば、私は確かに天使だわ」
言いながら、彼女は目を細めた。
「驚いたり疑ったりするのは当然。私も自分のところに天使が来た時にはまったく信じていなかったから」
彼女のところにも天使が来たと聞いて、美弥子は説明を求めた。
聞きたいと思った。
彼女がここにいる理由を。
すると彼女は笑みを強め、昔を懐かしむように話し始める。
「私のところに天使が来たのは七年前だったかしら…、その時に教えてもらったの、人間には二通りの終り方があるんだ、ってこと」
彼女の話しは続く。
人間に訪れる二通りの終り方。
一つは神様が定めた正しい終わり。
そしてもう一つは、自分が、他人が――人間が、勝手に決めてしまう間違った終わりだと。
そして正しい終わりを迎えた人間は、死神様が迎えに来るのだと聞き、美弥子は驚いた。
イメージで言えば、死神の方が間違った終り方のような気がしたからだ。
だが彼女は面白そうに首を振る。
「そうね、皆そう言うのよ。死神はドクロの顔っていう印象が強いせいだと思うけど…。でも本当の死神様は、とても優しい方よ。冬の太陽に似ているかしら…、死を司る神様ですもの、正しい死を迎えた命を、大切に来世へ導いて下さるわ」
来世、未来、生まれ変わり。
それは本当にあるのかと問うと、彼女は目を瞬かせた後で、
「あら、じゃあ天使って本当にいると思う?」と聞いてきた。
…思わず笑ってしまった。
心の中で。
「逆に間違った終わりを選んでしまった人間を迎えに来るのは、天使の役目…」
彼女はそこで言葉を切り、苦笑めいた表情で言い直す。
「違うわね。間違った終わりを選びそうになっている人間を、そこから回避させるのが天使の役目なのよ」
世界には間違った終わりが溢れている。
殺人、自殺、事故――世界や国といった人間の作った土台の上で人々の感情は錯綜し、人々に死を与え、死を選ばせ、命は失われていく。
「それを一つでも減らしていくのが私達の役目…、それが、天使となった者達の償いだから」
償いと聞いて、胸が痛む。
何に対しての償いなのかと、重ねて問う。
「言ったでしょう? 私のところにも天使が来たと。……天使はね、もとは人間なの」
美弥子と同じ、ここで生きていた命。
「間違った終わりを選んでしまった人間が天使になるのよ」
だから、もしも美弥子があのまま死んでいれば、彼女もまた天使となっていた。
間違った死を選ぼうとしている人間を迎えにいく役目を担わねばならなかった。
それが、償いだから。
「…美弥子、よく考えて。もしもあなたが昨日死んでいたら、現在はどうなっていた? ご両親は悲しむし、健吾達も悲しんだはず…でも、それだけ? 貴方の死が影響するのは現在だけなの?」
もしも昨日死んでいたら。
今日行われている運動会。
そこで走るべき健吾達が走らなければ。
「転校前の最後の思い出作りは失敗し、対抗リレーの勝敗によって変わる好きな子への告白も可能性はゼロになる。それは、どこまで影響していくと思う?」
では逆に、健吾達が走ったことで未来はどう変わっていくだろう。
彼らが優勝したら?
告白して、良い返事がもらえたら?
「人一人の命は、本人に関わった人だけに影響するものじゃないの、その力はどこまでも繋がっていくものなのよ」
天使が言う。
けれど、もしも自分が健吾と知り合いでなかったならどうだろう。
まったく見ず知らずの赤の他人なら、自分が例え昨日死んでいたとしても、何も変わらないのではないか。
そう思うが、天使はそれも違うと首を振る。
「あなたと健吾が知り合いになってもならなくても、あの事故は起きていたの。昨日、あの運転手が事故を起こすことは決まっていた。健吾達が川原に行って練習することも決まっていたし、貴方は、病院に行かなくても母親に頼まれた葉書を出しに、あの場所に行っていた。そして、必ずあなたと健吾は互いの存在を認知していたわ。だって、川原で走る練習をしていた健吾を見つけたのはあなたの意思。そして、自分を見ているあなたに気付いたのも健吾の意思なんだから」
美弥子は知らない。
けれど、健吾もまた彼女の存在には気付いていたのだ。
だからたとえ、二人が言葉を交わすきっかけが、あの雨の日の天使の存在であったとしても。
轢かれるはずだった少年と、轢かれた少女、ただそれだけの関わりであったとしても、必ず二人の視線は重なり合った。
「知り合いかどうかなんて関係ない。目の前であなたが轢かれるという事実が、あの子達を運動会で走れなくさせる。事故という不当な死で、未来は壊されてしまう。そのうえあなたが死を受け入れてしまったら、未来はどんどん悪い方向へと進むだけなのよ」
不当な死が未来を変えていくことに、人間は気付いていない。
生きるべきだった命が失われ続けることで、彼らが関わるべきだった時間に関われなくなり、未来が狂いだしていること。
人間の死を、人間が定めるからこそ世界は狂い始めているのだということに、ヒトは何故、気付けないのか。
「どんな人間も、ここに存在しているだけで未来を動かしているの。誰かと関わっているの。不当に失われていい命なんて絶対に、どこにもない」
だからこそ回避出来る可能性から目を逸らし、終わりを選んでしまった天使達は償い続ける。
一つでも多くの、間違った終わりを阻止するために。
「あなたは健吾達に走れと告げ、結果を出して戻ってくるのを待っていると返した。私も随分と口を出しはしたけれど、貴方は貴方の意思で待つことを選んだ。死を回避した。―――あなたは、間違いなく、あなた達の未来を守ったのよ」
天使の言葉に、形にならない涙が毀れる。
繰り返しの毎日に飽き、いつ終ってもいいと思っていた自分が恥ずかしい。
たとえ繰り返しでも、誰かに、未来に影響する命であったことが嬉しい。
「繰り返しの毎日だとあなたは言うけれど、一日が二十四時間なのは万人に平等に与えられた生きる時間なの。それを有効に使うか否かはあなた自身の心掛け次第でしょう? まずは好きなものを見つけてみなさい。何にでも、諦めずに挑戦してみなさい。貴方が“生きたい”と思うだけで、未来は必ず正しい方へ動いていくわ」
そう。
“生きたい”と思うだけ。
本当に、ただそれだけで。
「…ほら、彼らも頑張ったみたいだし」
天使が言う。
促された視線の先。
大きな窓ガラスの向こうに、健吾達。
一枚の賞状をガラスに張り付かせて、叫んでいる。
「おめでとう」
優しい一言。
それが最後。
天使は消えた。
嬉しそうな笑顔だけを残して。
だから美弥子も微笑った。
精一杯、笑った。
ガラス越しの彼らへ、力ない手で象るVサイン。
優勝、おめでとう。
周りの看護師達が騒ぎ始める。
それが、美弥子が意識を取り戻した瞬間だった。