選択
六
いつ終っても惜しくない。
正直、繰り返しの毎日には飽きていた。
家に帰ってから「何をしよう」と考えるのも。
何かを持たない自分自身にも。
普通に生きることしか出来ない“私”に、他の誰よりも、美弥子自身が、飽いていた。
――…少しは“生きたい”と思えない?
彼女にそう言われた時、自分は生きていると思った。
生きているつもりだった。
けれど、本当はその言葉の意味に気付いている自分が、判らないフリをさせていただけで。
彼女の言動に苛立ちを覚えたのも。
彼女の存在に嫌悪したのも、図星を指されたと、本当は判っていたからだと思う。
だから、終わるなら早く終ってしまえばいいと、そう思っていたのだ。
「少しは“生きたい”と思えない?」
その言葉が繰り返される。
何度も何度も問い掛けて来る。
けれど答えは、判らない。
…否、判っている。
愚かな自分になりたくないだけで、自分に選ばせて欲しくないだけで、答えなんて最初から決まっていた。
もう本当に、生きても何もないから。
また繰り返しの毎日に戻るだけだから。
…それなら、もう終ってもいい。
このまま死んだ方が、きっと、楽。
「だから、素直に死ぬの?」
「たった一つの未練もないの?」
彼女の声がする。
緩やかなウェーブの掛かった長い髪。
空に浮かぶ雲のように、ふわふわとした少女。
「本当に、そのまま死んでしまってもいいの?」
問われる。
美弥子は思う。
あなたは、誰。
何も無い。
光りも闇も、誰の姿も。
自分自身すら、ここにはいない。
眠りにつく時に似た、意識が降下していく感覚だけが判る。
どこまでも、ゆっくりと降りていく――その遙か下方から、彼女の声。
「本当にいいの?」
「未練は、ないの?」
未練て、なに。
やり残したことはないのかという意味だろうか。
…ならば、何もしていなかった自分に未練を問うのは、無駄なこと。
そう思うと、笑えてしまう。
ようやく自覚する。
自分は生きてなどいなかった。
毎日を繰り返すだけの人形だった。
もういい。
本当に、もういいから、早く死なせて。
これ以上、惨めな思いをさせないで――。
「姉ちゃん!」
不意に響く叫び声。
近い。
すぐ傍に、健吾の声。
「姉ちゃん頑張れよ!」
「負けンな!」
「お姉ちゃん!」
健吾だけじゃない。
彼の友達も一緒だ。
川原で走る練習をしていた四人の小学生。
――川原で。
あの瞬間、橋の上で。
「彼も、未練にはならない?」
これは、あの日の繰り返し?
これは、なに?
「あなたが、いま死んだら、あの子達は運動会で走れないわね」
ドキリとする。
あんなに練習していたのに。
「絶対に勝つ」と、あんなに頑張っていたのに。
「あなたが死んだら、あの子達は大事な勝負を駄目にするのよ。自分達の目の前であなたが車に轢かれたんだもの。自分達を轢くかもしれなかった車が、あなたを撥ねたんだもの。あの子達の受けたショックがどれ程のものか判る? あの子達が走れるかどうかは、あなた次第なのよ?」
胸が騒ぐ。
怖くなる――自分自身すら感じられなくなっていたはずの、意識の中で、唐突に襲ってきた強い不安。
彼らが走らないのは、自分のせいだと言われて。
目の前で自分が轢かれたせいで、彼らがどんなにショックを受けたのかなんて、全然考えていなかった自分が、信じられない。
「いいかげんに少しは自分の人生を見直してやりなさいよ。本当にそのまま死んでいいの? 後悔はないの?」
最後に重なった少年との視線。
最後に呼んだのは、誰だった…?
例えここで自分は死ぬのだとしても、それのせいで彼らの努力が無駄になるのは耐えられない。
それだけはイヤだ。
―――…っ……お願い…伝えて…
沈みいく意識の中で、いま初めて、手を伸ばしたいと思った。
下降していくものを、少しの間でいい、止めて欲しいと願った。
お願い、伝えて。
走って、と。
優勝して、最後に、最高の思い出を作ってきて、と。
「姉ちゃん!」
健吾の声がする。
震えた、絶叫。
「待ってろよ! オレ達、絶対に優勝してくるから! 絶対に勝って戻ってくるから!」
絶対に、待っていろ。
訴える健吾に、応えたい。
待っている、と応えたい。
「待つのね?」
確認してくる彼女に、頷きたいと思った。
それが、最後だった。