その日
五
喉が痛い、頭が痛い。
体がだるい。
それは明らかに風邪の症状である。
どれくらいの時間をそうしていたのかは判らないが、昨日、あれだけ雨の下に居続ければ体調を崩して当たり前だ。
休日の土曜日で良かったと思いながら階下に下りると、居間の掃除をしていた母親が顔を上げた。
「おはよう美弥。体の調子はどう?」
「うーん…あんまり良くないかも」
「そう? でも、辛いのは判るけどご飯食べて、早いうちに病院に行きなさいね」
「…病院、行かなきゃダメ?」
「長引かせたくないでしょう?」
諭すように言われ、美弥子は渋々ながらも頷いた。
「あと、悪いんだけど病院に行く途中であそこにある葉書を出して来てもらえる?」
「葉書?」
母親に示された方を見てみると、居間のテレビ近くに置いてある硝子製テーブルの上に数通の葉書と封書が置かれていた。
「…お母さん、病院に行かなくてもコレは私に頼むつもりだったでしょ」
「あ、判った?」
「だって、ポストのあるコンビにまで行く途中には犬が多いから嫌だっていつも言ってるじゃない」
娘の指摘に、母親は「そうなのよねー」と困り顔になる。
「だからお願い。今日の消印つけてもらわなきゃ無効になっちゃうし」
「またテレビの懸賞か何か?」
「今回は新聞のクロスワード」
「好きだね…」
呆れ気味に呟くも、断わるつもりはない。
「ん、わかった。ちゃんと出してくるよ」
「よろしく」
そうして、言われた通りに食事を済ませた美弥子が、病院に行くために着替えて家を出たのは、十二時を少し回った頃だった。
住宅街の中を歩きながら空を見上げて目を細めた。
昨日までの雨が嘘のように、頭上には青く澄み渡った空が広がっていた。
この様子ならば、明日の運動会も好天に恵まれそうだ。
健吾が走る、ここでの最後の運動会。
対抗リレーで勝てることを祈ろうと思う。
「…今日は学校での合同練習かな」
美弥子は、おそらくはもう二度と会うことのないだろう少年の姿を思い出しながら呟いた。
いま思えば、下校途中にあの川原を通るようになってからは楽しいと感じることが多かった気がする。
必死に走っている少年達の姿を見ていると胸が騒ぎ、健吾と言葉を交わすようになってからは、毎日、ちゃんと笑えていたように思う。
それは“変化”だったのかもしれない。
しかし明日の運動会が終れば健吾は違う学校に転校してしまい、あの川原に来ることもなくなる。
そうなれば、美弥子も以前の生活に戻り、結局は、わずか数日の小さな変化など、あってもなくても同じことではないだろうか。
「…なんか頭痛くなってきた…」
考えすぎかなと自嘲する。
それでなくとも風邪で体調を崩しているのだ。
これ以上は悩むなと自分に言い聞かせて、母親から預かり、手に持った数通の葉書と封書に視線を移した。
「そうだ…病院に行く前に出して来なきゃ…」
今日の消印をもらうには、一時前の最後の収集で持って行ってもらわなければならないのだと思い出し、いま歩いてきた道を少し戻る。
途中の曲がり角を折れると、途端に彼女を迎えたのは大型犬の吠え声。
これにドキリとさせられ、なるべく道の中央を歩くようにして住宅街の中道を過ぎていく。
一匹が吠えると、次々と近隣の犬が動き出す。一緒になって吠える犬もいれば、ただじっ…とこちらを見ている犬もいる。
どこか寂しげな表情に、ちゃんと遊んでもらえているのかな…と不安になりつつ、母親同様、自分もこの通り道は苦手だなと改めて思った。
そうして住宅街を抜けると、途端に現れるのは国道を走る大量の車の群れ。
美弥子の自宅は国道のこちら側になるため、町内の大半の道は、この国道に突き当たることになる。
つまり、どの道もあの川沿いの道と、平行とまではいかないまでも並んで土地を通っているわけだ。
右を見やると、千年川。
病院は左側だ。
そしてポストは、右側に少し行った先のコンビニの前。
美弥子は迷わずそちらに歩を進め、郵便ポストに近づいた。
――その時だった。
急に国道を走る車の群れから大量のクラクションが鳴らされ始めた。
それに、人の叫びが重なった。
ポストに葉書を投函していた美弥子も驚いて振り返り、そうして、一台の車が蛇行しているのを見た。
「あぶな…」
無意識の呟き。
そして、千年川に掛かった橋の上を歩いていた人影に気付く。
目を見開く。―――それは四人の小学生。
「ひっ…!」
健吾だった。
彼と、一緒にリレーを走る友人達。
彼らの至近距離に蛇行車。
「健吾君っ!」
叫んだ。
絶叫した。
「―――っ…!」
刹那、蛇行車が急激に向きを変える。
腰を抜かし座り込んだ小学生は、無事。
無事だ。
「健吾君!」
駆け寄ろうとした。
だが足が竦んでいる。
動けない。
対向車線への侵入、響くクラクション、急ブレーキの金切り声。
奥の車線で複数の衝突音。
再びの急激な進路変更。
「ぁ…」
そのボンネットが、美弥子の眼前。
引きつった顔の運転手と目が合った。
足は動かず。
何故か動いた、視点の先。
「――ぁ…」
重なる、健吾との、瞳。
「 」
空が、青かった。