気持ち
四
死にたいと思ったことはない。
けれど、もし死ぬことになったなら、それはそれで構わない、とは思う。
生きていれば死ぬのは当然のこと。
遅いか早いかは人それぞれで、自分の番が来たというなら、それでいいと思うのだ。
なのに、何故だろう。
本心からそう思うのに、それを健吾に聞かれたと知った瞬間、強いショックを受けている自分がいた。
そうして、走り去られ、向けられた背中に、泣きそうになってしまった。
そのうえ、自分にそれを言わせた張本人もどこかへ姿を消してしまい、一人取り残された自分が、どのように帰宅したのかも、あまり覚えてはいなかった。
気付けば窓の外では雨が降り始め、母親の用意してくれた夕飯の匂いが階下から上ってきていた。
あとは家族で食事をし、後片付けを手伝い、お風呂に入って就寝準備。
眠れば数時間後には朝が来て、また一日が始まる。――結局、繰り返しなのだ。
自分が落ち込んでいても。
健吾を傷つけたとしても。
一日は当たり前に過ぎていく。
同じ光景が繰り返される。
それが、普通だ。
そして何度も繰り返し再生されたテープが痛んで壊れてしまうのが当然なように、人の命には終わりが来る。
自分は間違ってはいないはずだと、拳を強く握り締めながら思う。
…なのに、それが本心なのに、健吾に聞かれたのが悲しくなるのは何故だ。
――少しは“生きたい”と思えない?
彼女の、あの言葉が蘇る。
理解なんて出来ないし、したくもないのに頭から離れない。
「美弥子、ご飯よ」
階下から自分を呼ぶ母親の声がする。
けれど、とても食事をする気にはなれなかった。
◇◆◇
昨夜から降り始めた雨は翌朝を迎えても止む気配を見せず、梅雨知らずの土地の人々に疑似体験をしているような錯覚を抱かせるほど、近頃は雨の日が多かった。
美弥子は図書室に寄り、本の返却を済ませてから下校した。
手に持った白い傘。
車道を行き来する車に路面の雨水を撥ねられても濡れないよう、歩道の端に寄って歩いていく。
それはこの時間帯に帰宅する生徒達、皆が考えることで、同じ制服を着た群衆が歩道に細い列を作って歩く光景は、いつの雨の日も同じ。
あの雨の日も、同じだった。
それを思うと、まさかという不安が胸中を騒がせた。
昨日、あのようなことがあって、今日もそうだとは考え難い。
毎日は繰り返しだと、彼女は知っているけれど、まさか、今日という雨の日も、健吾はあの場所で走り続けているのだろうか。
そう思うと、落ち着いて歩いてなどいられなかった。
美弥子は走り出す。
自分の足が雨水を撥ね、同じ下校中の生徒達に嫌がられることなど考える余裕もなく、川原に向かって走り出していた。
あの日は誰もいないと思い込んで通り過ぎようとした川沿いの道を、今日は迷わず芝の坂道から川原へ駆け下りた。
前後左右を見渡し、健吾を探す。
だが誰もいない。
やはり今日こそは、彼もここには来なかった。
「…だって…傷ついた顔していたじゃない…」
自分と、あの少女との会話を聞いて、何も言わずに背中を向けて走り去ってしまった少年。
美弥子にとってはあれが本音で。
何が健吾を傷つけたのか、確かな理由は判らないけれど、美弥子に強いショックを与えるほど傷ついた顔をして見せた少年が、昨日の今日で、しかもこの雨の中、川原に走りに来るはずがない。
健吾が、ここにいるわけがない。
「……バカみたい…」
美弥子は、自分でも驚くほど、この事実に落胆していた。
判っていたことなのに、実際に健吾のいない川原に立つのは、予想以上に切なかった。
「健吾君…」
震える唇が呼んだ名前。
何故だろう。
こんなにも彼に会いたいのに、会いたくないと思う自分もいる。
ここで待っていれば健吾が来るかもしれないと思いたがっている自分の中に、だが早く家に帰って健吾のことなど忘れてしまいたいと願う自分も、確かにいる。
何よりも、そんな自分自身が理解出来なくて、その場にしゃがみ込んでしまう。
「…健吾君…」
再び呟かれた名前。
美弥子は、しばらくその場を離れることが出来なかった。