存在
三
翌日、放課後に所用を済ませていた美弥子はいつもより遅くに川沿いの道を通った。
川原には、健吾達の練習する姿があり、無意識に口元が綻ぶ。
その直後だった。
「あらあら。少しはイイ顔をするようになったんじゃない?」
唐突に声を掛けられ、驚いて振り返ると、そこにはあの少女がいた。
雨の中でさえ柔らかさを失わないウェーブの掛かった長い髪に、目鼻立ちのはっきりとした顔立ち。
少しは生きたいと思えないのかと、美弥子を悩ませる言葉を残して去った、あの少女が。
「あなた…っ」
「どーも。また会ったわね」
美弥子が思わず声を張り上げるも、相手はさらりと受け流すだけでなく、隙の無い笑顔で応じてきた。
互いに今いる場所から動くことはせず、美弥子は相手を睨むように見返した。
「あなた…誰なの…?」
不信感いっぱいに問いかけると、彼女はくすくすと笑う。
「随分、警戒されているみたい」
「しないわけないでしょう? あんな意味不明なこと言い残しておいて…っ」
「意味不明なこと?」
「生きたいと思えないのかって聞いて来たでしょ?」
語調荒く言い返すと、相手は眉間に皺を寄せた。
「それの、どこが意味不明なの?」
「――っ、生きている人間に生きたいと思えないのか、なんて、普通は聞かない!」
「あぁ」
美弥子の言っていることにようやく合点がいったらしい少女は、なるほどと理解する一方で、その表情に意味深な笑みを浮かべさせた。
「そっか、あなたの“生きている”って、命がここに在るって意味だものね」
「ぇ…?」
「あなたは自分が生きていると信じて疑いもしないんだってこと」
更に彼女の言葉は続くが、美弥子にはますます不可解でしかない。
“生きる”というのは、生きているということ。
美弥子は確かにここで生きている。
「…まさか私が幽霊だとか思っているんじゃないでしょうね」
「へぇ? 幽霊を信じるんだ?」
「っ、知らないけど! 私じゃなくてあなたがそう思ってるんじゃないのってこと!」
「ご心配なく。あなたの命がここに在るのはちゃんと判ってるわ。でなきゃ私と喋れるはずがないもの」
こう言えば、ああ言う。
しかも会話は噛み合わない。
彼女から発せられる言葉は、いちいち美弥子に理解することを苦しませ、苛立ちを募らせる。
「…っ、ほんと、あなた何者なの!」
「さぁ? まだ教えられないわね」
「まだって何? いつなら教えてもらえるの?」
「あなたが“生きたい”と思った時に」
そうして、結局はそこに戻るのだ。
いい加減に我慢も限界に達しようとしていた美弥子は、これ以上の会話は無意味と判断し早々に立ち去ろうと決めた。
二度と会いたくない。
そう胸中に叫びながら踵を返した。
だが、そうした美弥子の背中に彼女の声が掛かる。
「一つだけ、教えてあげるわ」
去ろうとした足が、無意識に止まる。
まるでその声に繫ぎ止められたように、美弥子の意識とは無関係なところで動きを制せられた。
「いまのあなたは、いつ死んでも仕方が無いと思ってる。例えば、もし明日、事故に遭っても、あなたはこれが運命なら仕方が無いと考えて、素直に死んでしまえるのよ」
「…っ、それの何が悪いの?」
思わず彼女を振り返り、叫んだ。
「死ぬ時には死ぬの、そんなの当たり前じゃない。普通のことでしょ?」
「そうよ。生きているから、いつか死ぬの。でもあなたは生きていない」
「生きてる! ここにいる!」
「だから、いまのあなたには私が何者かは教えられない」
「…っ」
サイテーだ――心の奥底から湧き上がってくる気持ちの悪いものが、体中に広がっていく感覚。
嘔吐する時に似て、眩暈や、息苦しさまで重なって。
怒りだけじゃない。
嫌悪や、もしかすると、これが憎しみという感情なのかもしれなかった。
そういった強く険しいものばかりに全部を覆われて、もはや抑えなど利かずに、声を荒げた。
「判んない…ほんと判んない…っ、あなた何なの? どういうつもり? 勝手なこと言わないでっ、あなたが何者かなんて、もうどうでもいいから!」
「残念ね。あなたが判らなくなって、私にはあなたが判っちゃってるのよ」
「黙って!」
「私が黙ったら、あなた本当に生きられずに終るだけだわ」
「関係ないでしょ? 私が死のうが生きようが、あなたには何の関係もない!」
腹立たしかった。
何もかもが。
自分には何も判らずとも、相手には自分が判っていると言われた事が、特に。
彼女は何を判っていると言うのだろう。
生きているのに、生きていないと言われる理由がどこにある。
少なくとも美弥子は死にたいと願ったことなどないし、毎日を普通に過ごしている。
朝になれば起きて。
学校に行って、帰ってきて。
時間が来たら寝て。
また、朝が来て。
その繰り返し。
いつまでも続く毎日。
それを、普通に生きている。
「だから事故に遭ったら素直に死ぬの?」
「そうよ! 事故じゃ仕方ないもの、素直に死んであげる!」
「未練はないの?」
「あるわけないでしょ? 私の人生なんていつ終わっても同じなんだから!」
普通の生活なんて、いつ終わっても惜しいはずがない――。
「なら、彼も未練にはならない?」
不意に、彼女が指差した先。
ハッとして振り返れば、そこには彼の姿があった。
「…健吾、君…」
驚きに見開かれた目で。
震える声で、呼びかければ。
「…オレ…」
青い顔で呟きかけた少年は、だがそれ以上の言葉をつなげる事が出来ずに、クルリと背中を向けて走って行ってしまう。
「健吾?」
川原で、三人の友人達も驚いている。
「健吾!」
彼を追うように走っていく。
そうして二人だけが残された川沿いの道――否、立ち尽くしていたのは、美弥子一人。
「…また消えるし…っ」
散々、勝手なことを言ってきた彼女の姿はどこにもない。
その残滓さえ感じられない。
まるで、最初から彼女など、この場にはいなかったように。
…まるで、この世界には自分一人きりしか存在してなかったかのように。
「…ほんと…判んない…っ」
そう呟く彼女は、泣き方すら、判らなくなっていた。