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言葉


 二


 それから二日。

 雨は上がり、川原の土もわずかに湿気を残す程度の、走るには丁度良い弾力を取り戻していたが、そこに健吾の姿はなかった。

 彼が風邪を引かなかったか心配していた美弥子は、一目でも姿を確認出来ればと思いながら川沿いの道を通って帰宅していたのだが、二日間も姿を見せない彼に、やはり強引にでも自分の家で着替えさせるべきだったかと後悔し始めていた。

 そうして三日目の、この日。

 今日こそは会えますようにと内心で祈りながら川沿いの道を歩いていた美弥子は、

「姉ちゃん!」

 突然の呼びかけに、大袈裟なほど肩を上下させて声のした方を振り返った。

 アスファルトの歩道を元気に駆けて来る健吾。

 背中には黒いランドセル。

 学校から真っ直ぐこちらに向かってきたのが判る。

「健吾君」

 足を止めた美弥子の傍まで近づいてくると、何度か深呼吸を繰り返した後で顔を上げた。

 楽しげで、無邪気な笑顔。

「姉ちゃん、もしかして、今、オレのこと探していた?」

「えっ…」

 楽しげな少年に図星を指されて言葉を詰まらせると、

「やっぱり!」

 健吾は嬉しそうに言った。

「なんかキョロキョロしているからもしかしてと思ったんだ。昨日まで二日も来れなかったし、オレが風邪引いたかもって心配しているかなって、オレも心配だった」

 風邪と聞いて、美弥子の表情も変わる。

「そうよ、風邪、引かなかったの? それともやっぱり風邪を引いて寝込んでいた?」

「ううん、オレ風邪なんか引かないもん」

「そんなの判んないでしょ? あれだけ濡れていたんだし、六月だってまだ寒いんだもの」

「でもお母さんも言ってたぞ、オレはバカだから風邪の心配はしないでもいいって」

 バカだから風邪を引かない、それが風邪知らずの根拠になるとは思えなかったが、病は気からとも言う。

 そう言われて育てば、風邪知らずでいられるのかもしれない。

 とにかく、体調を崩して苦しんでいたわけではないと知り、安堵した。

「じゃあ、元気だったのに昨日まで練習に来なかったのは、どうして?」

「一昨日も昨日も、学校での合同練習があったんだ」

 合同練習と聞き、美弥子は自分の予想が間違いではなかったらしいと思う。

「そっか、ここで走っていたのは、やっぱり運動会の練習だったんだ」

「うん?」

 微妙に会話の応答がずれていることに、健吾が小首を傾げた。

「あれ…? っていうか、もしかして姉ちゃん、昨日も一昨日もここまで来てオレのこと探してくれてた?」

「え…」

「そんなにオレに会いたかったんだ?」

 ニッ…と唇の端を持ち上げながら告げられた言葉が、美弥子の顔を瞬時に火照らせた。

「そっ、そんなわけないでしょ!」

 ムキになって言い返すも、健吾は既に勝手に納得している。

 そのうえ、

「でもオレも姉ちゃんに会いたかったよ」

 言いながら、少しだけ身体の向きを変えて背中のランドセルを美弥子に見せた。

「いつもはコレ、家に置いてからこっち来るんだけど、今日は真っ直ぐこっち来ちゃったんだ。急いで良かった、じゃなきゃ会えなくなってたもんな」

 確かに、この時間に川沿いを通り過ぎようとしていた美弥子だ。

 健吾が自宅に寄ってランドセルを置いてからこちらに向かって来ていれば、完全に擦れ違い、不安は明日へと引き摺られていただろう。

「さっき、走りながら姉ちゃん見つけた時はすげぇ嬉しかった!」

 満面の笑顔と、飾らない素直な言葉。

 美弥子の心臓が慌しい。

 卑怯だと思う。

 これは、子供だけの特権だ。

「姉ちゃんもオレに会えて嬉しかったよな」

 そんなふうに聞かれても、もう子供ではいられない美弥子には素直な言葉など返せない。

「ま、まぁ…少しは、ね…」

 目を逸らしながら精一杯の譲歩でそう返せば、それでも健吾は満足したようだ。

「姉ちゃん、いま時間ある? 大丈夫だったら練習付き合ってよ。もう少ししたら友達も来るから、それまでさ」

「でも…」

「ね!」

 言うなり、健吾は美弥子の手を掴み、芝の坂道を下りていく。

「ちょっ…」

「転ぶなよ!」

 わずか二メートル弱の緩やかな下りだ。

 ゆっくり下りるなら何の心配も要らないだろうが、健吾に引っ張られながらでは足元が覚束ない。

「わっ、きゃっ」

「うおっ」

 あと数歩で平らな地面に足がつくというところで爪先が土を蹴ってしまった身体は、そのまま前のめりに傾いていく。

「姉ちゃん!」

 掴まれていた手が解け。

 少年の細い腕が伸ばされるけれど、身長が三十センチも大きな美弥子を支えられるわけがない。

 美弥子も、まさか健吾まで巻き込むわけにはいかないと慌てて地面に手を伸ばした。

「っ…」

 最終的に、腕立て伏せのような態勢で大地とキスし掛け、膝をつくことで身体を起こす。

「大丈夫か姉ちゃん!」

 その場に座り込んでしまった美弥子に、健吾の慌てた声。

 制服のスカート越しに、土の感触。

「もー健吾君、無茶させないでよ!」

「ごめん、だってこれくらいの坂で…」

「私は健吾君みたいに若くないの!」

「姉ちゃん幾つだよ」

 容赦ない切り替えしにまたも言葉を詰まらせた美弥子だったが、不意に健吾から小さな笑いが漏れ聞こえて、彼を見上げた。

 そう、見上げたのだ。

 美弥子は転びかけて地面に座ったままで、健吾は立っていたから。

「ごめん。これってオレのせいなんだけど、ちょっと嬉しいな。姉ちゃん、オレより小さくなったみたいだ」

 美弥子は瞬きも出来ずに彼を見上げる。

 照れたように、なのに素直に、笑う子供。

 反則だ。

 心臓の音を煩わしいと思うのと同じくらい、何度も何度も、こんなのはヘンだと自分自身に言い聞かせる。

 思わず「帰る」という言葉が口をついて出そうになり、だが自分の発言にこちらも照れたらしい健吾がおもむろにランドセルを手渡してきた。

「持ってて! 身体慣らしてくる」

「ぁ…」

 言って、さっさと美弥子から離れていった健吾は、彼女に背中を向けたまま準備体操を始めた。

 腕を伸ばしたり、アキレス腱を伸ばしたりと、いわゆるストレッチ体操で五分ほど身体を慣らしてから、スタート姿勢を取り、走り出す。

 土を蹴り、風を切り。

 真剣な表情で。

 五十メートルほど離れたところで止まり、向きを変えると、今度はこちらに向かって走ってくる。

 真っ直ぐに前後に振れる腕。

 高く上がる膝。

 走ることに関しては素人の美弥子だが、それでも健吾のフォームは綺麗だと思った。

 速度にしても、決して遅い方だとは思えない。

 どうして毎日、自宅から遠く離れた場所で練習を繰り返さなければならないのかと疑問が浮かぶ。

「健吾君」

 彼がこちら側で止まるのを待って声を掛けると、少年は「なに?」と息を弾ませながら応えた。

「あのね、私は素人だから何秒で走るのが速いとかよく判らないんだけど、健吾君のタイムってそんなに悪くないように思うんだ。なのにどうして、わざわざここまで来て練習を続けるの?」

 美弥子の問い掛けに、健吾は少し考え込む様子を見せたが、数秒後には何かを吹っ切ったように美弥子の方へ戻ってきた。

「実はさ」

 健吾は立ったまま話し始める。

 どうやら、美弥子を見下ろせるというのが気に入ったらしく、もちろん彼女もそんな健吾の意図には気付いているが、わざわざ立ち上がるのもどうかと、そのままの態勢で聞くことにした。

 せっかく話してくれそうな健吾に、考え直されるのも困る。

だが、そうして聞かされた答えに、美弥子は一瞬とはいえ思考が途切れた。

「実はさ、オレ、運動会が終ったら転校するんだ」

 転校。

 それが、健吾がこの土地からいなくなってしまうということだと認識するまで、自分でもおかしいと思う程の時間が必要だった。

 その間にも健吾の話しは続いていく。

「今度の学校も、そんな遠くじゃないし、遊びに来ようと思えば、いつでも来れるんだけど、やっぱ学校が変わったら今の友達とは会えなくなるじゃん。それで、最後の思い出作りだって、運動会のクラス対抗リレーの選手に選んでもらえたんだけど、…あ、その前に、オレと一緒にリレー走る友達の一人が、隣のクラスに好きな子いるんだけどさ」

「――友達の、好きな子?」

 唐突に話しの筋が変わり、美弥子は目を瞬かせる。

 健吾は苦笑いを浮かべて、続ける。

「その子と同じクラスの、対抗リレーの選手が、やっぱりその子のこと好きで、Wライバルなんだって。で、リレーで勝った方がその子に告白して良いって賭けを始めたんだよ」

「小学生が?」

 なんてマセた子供だろうと思いながら美弥子が言うと、健吾は途端に不機嫌な顔になる。

「オレ達に好きな子いたらダメか?」

「駄目じゃないけど…、好きな子いるのはいいんだけど……だってまだ小学生なのに告白って…それって彼氏彼女になるってこと?」

「だよ!」

「嘘ぉー」

「ウソじゃねぇっ、好きなヤツと付き合いたいって思うのはフツウだろ!」

「付き合うって…小学生が…?」

 おそらくは“付き合う”の定義そのものが違うのだろうが、高校生の美弥子にとって、小学生の“付き合う”という表現はどうにも理解し難い領域だった。

 好きな相手と付き合いたい、それが普通だという思いも判る気はするのだが、どうしても現実味に欠ける。

「…本気で?」

「本気だ!」

 即答。

 あまりにも真剣な顔で少年が返してくるから、これ以上は怒らてしまうだけだと察し、美弥子は手を合わせた。

「ごめん、私が間違ってた」

「…本当にそう思ってるか?」

「もちろん。だから続きを聞かせて?」

 少々ずるいなと自分でも思ったが、続きを聞かせて欲しいのは本音。

 わざとらしいのは自覚のうえで、真っ直ぐに健吾を見返せば、最初は疑っていた健吾も諦めたように続きを話し始める。

「…で、勝負は運動会のリレーで決まるんだけど、合同練習で走る度に負けるんだ。…オレが、抜かされて…」

「健吾君が…?」

 驚いて聞き返すと、健吾は顔を歪めて頷いた。

「オレ以外、みんな体大きいし、早いし、それまで勝っててもオレが抜かされて負ける…オレを外して、オレより早い他のメンバーで勝負すればいいのに、これがオレの最後の行事だから、一緒に勝つぞって言ってくれるんだ」

 だから負けられない、と健吾は言う。

 だから、同じ学校の生徒達の目に触れない場所で、毎日、毎日、走り続けて。

「告白出来るか出来ないかって、一生が懸かってるのに、オレと走って優勝するぞって、オレのこと信じてくれてるんだ」

 一生が懸かっているなんて大袈裟だと美弥子は思う。

 …思うのに、心のどこか、奥深くで何かが騒ぐ。

「…運動会、いつ?」

「来週の日曜日」

「そっか」

 あと一週間と少し。

 たったそれだけで、健吾はここからいなくなってしまうのだ。

 それを寂しいと思うが、口に出すことは出来ず。

「勝てるといいね」

「いいね、じゃないよ! 絶対に勝つんだからな!」

 せめてもの応援にと呟いた言葉に返されたのは、揺らがない自信。

「…プレッシャー、辛くないの?」

 恐る恐る問い掛けると、健吾は左右に首を振る。

「ツライわけないじゃん。オレは絶対に勝つもん。あいつらと一緒に」

 言い切る。

 眩しいほどに、迷いのない瞳。

 それに射抜かれたように、次の言動が取れなかった美弥子だったが、不意に健吾の視線が彼女の奥、歩道の方へと向けられる。

「ぁ」

 驚いたような声。

 次いで、大声。

「おまえらいつからそこにいたんだよ!」

 美弥子も慌てて振り返ると、そこには、三人の小学生がこちらを眺めている姿があった。

 あの雨の日以前に、健吾とここで走る練習をしていた彼らだ。

「いやぁ、なんかオレらお邪魔みたいだったし?」

「健吾クン、ヤラシー」

「オレ達に隠れてデートだ、デート!」

 口々にからかって来る彼らは、自宅に寄ってランドセルを置いてからここにやって来たのだろう。

 身軽な格好で、芝の坂を下りてくる。

「高校生? 年上の彼女だ!」

「かっ、彼女じゃありませんっ」

 思わず敬語で言い返す美弥子に、健吾が吹き出す。

「そ。この姉ちゃんは彼女じゃなくてオレのストーカー」

「えっ」

「それも違うでしょ!」

 本気で引く三人の友人達。

 美弥子はすかさず健吾に向かって声を張り上げる。

 すると彼は笑う。

 楽しそうに。

「でもさ、こいつらにちゃんと紹介したくたって、オレも姉ちゃんの名前知らないじゃん。姉ちゃんはオレの名前知ってるのにさ」

「ぁ…」

 そう言われてようやく気付いた。

 自己紹介もまだだということ。

「えっと…」

 名前を告げるだけなのに、普段からは考えられないほど緊張する。

 美弥子は深呼吸をして気持ちを落ち着けながら、ゆっくりと、必死に声を押し出した。

「松島、美弥子、です…」

 やはり敬語になって。

 自分でもヘンだと思って。

「そっか」

 健吾が応える。

「姉ちゃん、ミヤコって言うんだ」

 健吾に呼ばれると、途端に心臓が跳ね上がった。



 ◇◆◇



 それから美弥子は彼らの練習に最後まで付き合い、帰宅して初めて泥だらけの制服に気付き、慌ててしまった。

 だが、不思議な充実感が胸を占める。

 繰り返しだと思っていた毎日に、わずかな変化。

 ただそれだけのことで、明かりを消した自分の部屋、眠りにつくまでの夜が、居心地良かった。

 しかし、不意に脳裏に蘇る彼女の言葉。


 ――…少しは“生きたい”と思えない?


 どれだけ考えても、意味が判らない。

 いま、こうして生きている。

 特に死にたいと思ったこともない。

「普通に生きているのに……」

 呟く言葉は夜の闇に呑まれ。

 応えるものは、何もない。




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