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 美弥子が通う高校は、自宅から徒歩で二十分ほどの場所にあり、毎朝六時半に起床して七時半に家を出るのが日課だ。

 早めに着いた教室で、その日の予習。

 八時を過ぎると同級生も次々と登校し出し、

「ごめん、昨日の宿題見せて!」と周囲に集まってくる友人達にノートを提供する。

 八時半から朝のHR。

 四五分から授業が始まり、午後三時十五分までそれは続き、割り当てられた区域の清掃などを済ませて図書室に立ち寄ると、学校での時間は終わりだ。

 新たに借りた本二冊を鞄に仕舞い、四時前後に下校。

 帰宅後は宿題を済ませ、図書室から借りた本を読み、母親に呼ばれたら夕飯の支度を手伝い、食事を取り、後片付けを済ませれば残すは就寝準備だけ。

 たまに面白いドラマや、お気に入りのお笑い番組があっても、一、二時間をテレビの前で過ごすだけのこと。

 これといって、やることもなく。

 毎日これの繰り返しだ。

 明日のことは誰にも判らないという台詞を、テレビなどでたまに聞くけれど、美弥子には自分の明日が判っている。

 何も変わらない。

 変える気も、たぶん、ないのだ。

 こんな日がいつまで続くのかと考えることはあるけれど、きっと高校を卒業するまでは変わらないだろうし、その先のことは現実感が無さ過ぎて、進学も、就職も、結局は同じことの繰り返ししか想像出来ない。

 例え結婚して自分の家族を持ったとしても同じ。

 未来の見える、単調な人生だ。

 けれど世間の脚光を浴びるのは一握りの才能ある人達だけだというなら、自分の過ごす毎日は、大半の人達が過ごす、普通の人生なのかもしれない。

 それなら、間違いじゃない。

 人生はそういうもの。

 きっと。

 そういうものだと、思いたい。


 ――少しは“生きたい”と思えない?


 彼女の言葉が蘇る。

 だけど、今だって生きている。

「何だったんだろ、あの人…」

 明かりも消され暗くなった部屋で、意識が眠るのを待ちながら布団に入っていた美弥子は、川辺で会った奇妙な少女の言葉を思い出し、次いで、走っていた少年のことを思い出した。

 勝つために、一生懸命、練習していた彼らも、繰り返しの毎日に、いつかはああいう姿を失くしてしまうのだろうか。

 普通が一番だと気付いて、自分のようになってしまうのだろうか。

 だとしたら、それは少し残念だなと。

 閉じた瞼の奥に彼らを浮かべながら思った。



 そしてこの日から三日間。

 あの川沿いの草むらからは、毎日、彼らの声が聞こえ。

 少女は一度も姿を見せなかった。



 ◇◆◇



 四日目は雨が降っていた。

 朝方から降り始めた雨は、その日の昼を過ぎても止む気配を見せず、いつもと同じ時間に学校を出た美弥子は、今年の春に買ったばかりの、白一色の傘を差しながら自宅へと向かっていた。

 途中、昨日まで四人の少年達が走る練習をしていた、あの川沿いの道を通る。

 声はしない。

 やはりこの雨では練習も出来ないだろう。

 何時間も降り続いている雨で地面はぬかるみ、川の水位も上がっている。

 傘を差しながら走るわけにはいかないし、濡れれば風邪を引いて、運動会で勝つどころではなくなってしまう。

「仕方ないか…」

 ぽつりと呟いてから、自分が彼らの姿を見たがっていることに気付き、おかしいなと小首を傾げた。

 一方的に見ているだけの、何の関係もない少年達の姿が見たいなんて、どうして思うのか。

「…変なの」

 またぽつりと呟いて、美弥子は歩調を元に戻す。

 一歩ごとに路面を濡らす雨水が跳ね上がり、音を立てる。

 頭上の傘に打ち付ける雨音とは違った、足元の水音。

 足音――それが、妙に響いた。

 だから美弥子は立ち止まり、振り返った。

「ぁ…」

 いつの間にか、そこにはあの少女がいた。

 四日前、意味不明な言葉を置いて去ってしまった彼女が、この雨の中にも関わらずふわふわと雲のように波打つ髪を泳がせ、立っていたのだ。

「どうして…」

 周りの景色とは重なり合わない、明らかに異質な存在に、美弥子は身震いした。

 だが、あの日は美弥子だけをじっと見つめていた眼差しが、今は川辺から動かないことに気付き、警戒するようにそちらを伺った。

彼女は見ている。

 ――――見ていた。

 そこで走る彼を。

「健吾君!」

 驚いて声を上げた。

 とうに通り過ぎた位置に、こちらとあちらを繫ぐコンクリートの橋が掛かっているのだが、その下に、足を泥だらけにしながら肩で息をしている少年がいた。

 雨でびしょ濡れになった衣服は少年の小柄な四肢に張り付き、髪も頭の輪郭そのままに垂れ落ちている。

 それでも少年は、両腕両足を交互に前後させてスタート姿勢を取ると、そのまま向こう側へ走り出した。

「! ちょっと…っ」

 美弥子も慌てて走り出す。

 歩道を、彼を追いかけて必死に。

「どうしてこんな雨の中でまで…、あ!」

 不意に少年の身体が地面に引っ張られるようにして倒れた。

 ぬかるんだ土に足を取られたに違いない。

 当然だ、こんな地面、走るのに適しているわけがない。

「健吾君!」

 美弥子は慌てて歩道から芝へ踏み入り、坂を下って倒れた少年に近づいた。

 地面は予想以上に水を含み、一歩一歩が異様に重たい。

「健吾君、大丈夫?」

 傘を少年の上に持っていき、そうして初めて間近に見る少年は、思っていたよりも随分と幼かった。

 泥だらけになった顔を、泥だらけの腕で拭おうとするから、慌ててそれを止め、ポケットに入っているハンカチを取り出した。

「健吾君、大丈夫? 痛いところない?」

「うん…」

 花柄のハンカチで顔を拭かれながら素直に頷いてみせた健吾だったが、大きく開いた目で美弥子を見ている様子は、素直というよりも、驚きのあまり呆然としてしまっているという方が正しい。

 だが美弥子も、雨の中でまで走る練習をしていた健吾への驚きが大きくて、冷静に彼の反応を読み取る余裕はなかった。

「無茶し過ぎだよ、こんな雨の中でまで練習するなんて…っ…家どこ? 近いの? 早く着替えなきゃ風邪引いちゃう…っ」

 早口に言う美弥子に、だが少年は答えない。

「健吾君?」

 ようやく少年の様子がおかしいことに気付いて呼び掛け、目線の高さを合わせると、途端に相手の眉間に皺が出来る。

「…健吾君?」

 もう一度呼びかけると、少年はますます眉間の皺を深くした。

「……姉ちゃん、誰」

「え…」

「なんでオレの名前、知ってンの?」

 明らかに不審人物を見る目つきでそう尋ねてくる少年に、美弥子は思い出す。

 自分がただ勝手に彼らの練習を覗いていたこと。

 健吾にとって、自分は何の関係もない他人なのだということ。

「あ…っ、ご、ごめんなさい!」

 思わず頭まで下げて謝る美弥子に、再び驚いたらしい少年の眉間から皺が消え、大きく開かれた目には、動揺と恥ずかしさで真っ赤になった美弥子が映る。

「あの、でも、私、決して危ない人なわけじゃなくて…あ、なんか既に充分怪しいかもしれないんだけど、でもそうじゃなくて…っ…何て言うか、昨日までここで練習していた健吾君達のこと毎日見てて…っ」

「ストーカー?」

「! ううんっ、ううん、全然違う! 確かに毎日見てたけど、そんなんじゃなくて…そう思われても仕方ないかもなんだけど、でも…っ」

 頭の中がぐるぐると回り、ストーカーとまで言われた美弥子の焦りは相当なものだった。

 自分でも何を言っているのか解からなくなるほど混乱してしまった彼女に、少年は一呼吸置いてから話し掛けてきた。

「…姉ちゃん、面白いって言われない?」

「ぇ…ううん、変だとは言われることあるけど…」

「ぶっ」

 少年が吹き出す。

 美弥子は目を瞬かせる。

「変…うん、姉ちゃん、変かも」

「へ…変、かな…」

「変だよ。すげぇ面白い」

「面白い…?」

 とうとう声を上げて笑い出した少年に、美弥子はどう反応すべきか真剣に悩んでしまう。

 だが、笑っていた健吾が唐突にくしゃみをすると美弥子も我に帰った。

「ほら、いつまでもそんな格好していたら本当に風邪引いちゃう! 家どこ? 近いの?」

「近くないよ。オレの家、梅ヶ(うめがおか)だし」

「梅ヶ丘?」

 この近くでは聞かない町名に、考え込みそうになった美弥子は、だが友人の住所が梅ヶ丘だったと思い出して顔色を変えた。

「梅ヶ丘って、確か(しゅく)(ばい)小学校の区域じゃないの?」

「うん。オレ、祝梅の生徒だもん」

「だもん、じゃないよ! どうして祝梅の生徒がここにいるの? 歩いたら三十分以上も掛かる距離じゃない!」

 それも、こんな雨の日に。

 この辺りは青葉(あおば)町という名がついており、この近隣の小学生は日ノ(ひので)小学校に通っている。

 祝梅小学校は、校区で言えば隣になるが、歩いて三十分はあくまでも大人の足での所要時間。

 健吾達小学生にとっては随分な遠出だ。

「信じられないっ、走る練習ならもっと家の近くでやるもんじゃないの?」

「近くじゃ知り合いに見られるじゃん。それじゃ秘密特訓にならねーもん。それにここまでの行き帰りに走るのだって大事な練習なんだぞ」

「だからって…」

 尚も言い募ろうとした美弥子だったが、再び健吾がくしゃみをしてしまい、とにかく彼を着替えさせるのが先だと気付く。

「とりあえず私の家に行こう。たぶん着替えもあると思うから…」

 美弥子には中学生の弟がいる。

 昔の衣類が、恐らくはまだ残してあるはずだ。

「ね、急ごう」

 言い聞かせるように美弥子が言うと、健吾の眉間には新しい皺が寄っていた。

「? 健吾君?」

「…家に連れ込もうなんて…やっぱ姉ちゃん、オレのストーカー…」

「違うってば!」

 ムキになって言い返す美弥子に、健吾は笑った。

「冗談だって。――ありがと、姉ちゃん」と笑った。

 あまりにも素直に、無邪気に。

 美弥子にとっては、思わず目を逸らしたくなるほど純粋な、感謝の言葉。

「でも、いいよ。自分の家に帰る」

 続いた健吾の言葉に、美弥子は目を丸くした。

「帰るって! だって梅ヶ丘なんでしょ?」

「走れば、そんなに掛からないよ。姉ちゃんに心配させるのもイヤだし、帰ってちゃんと着替える」

「でも…」

 健吾は簡単に言うけれど、小学生の足に、ここから梅ヶ丘までの距離は決して近くないはずだ。

 だが、どんなに言い募っても健吾が自宅に帰るという意思を崩さないのを感じ取り、不安はあるものの、これ以上引き止めることは出来ないと悟る。

 そもそも、帰ると言っている小学生を、初めて認識された自分が強く引きとめては、それこそ変質者だ。

 健吾が自分を信じられずにいるのだとしても当然のこと。

 むしろ、これくらいの警戒心がなければかえって危険というものだろう。

「じゃあ、せめて傘だけでも持っていって」

 言いながら自分達の頭上に広げていた傘を健吾の手に握らせようとするが、少年はこれも拒んだ。

「オレがこのカサを持っていったら、姉ちゃんがぬれるだろ」

「私の家はすぐそこだもの」

「それでもだよ」

「だって…」

「だってじゃないぞ。オレはガキだけど男なんだ。女からカサ取ってくなんてサイテーな真似は絶対にしないぞ」

「ぇ…」

 胸を逸らして、強く言い切った健吾は、傘を美弥子の方へ押し戻した。

 自身をガキと言いながら、何て生意気なことを言い出すのだろう。

 呆れていいのか、笑っていいのか。

 だが、どちらも唐突にリズムを早めた心臓の音が許してくれそうにない。

 これでは本当にヘンな人だ。

「じゃぁね、姉ちゃん。姉ちゃんも早く帰らないと風邪引くよ」

 健吾は笑顔で言い残し、梅ヶ丘方面に向けて走り出した。

 小さいのに。

 子供の背中なのに。

 男だと、少年は言う。

「ぁ…、この辺、道が狭くて事故が多いから気をつけてね!」

 この天気ではますます危ないと思い、慌てて大声を上げるが、果たして健吾には届いただろうか。

 雨降り頻る川沿いの道。

 美弥子はハッとして身体を反転させ、歩道を見上げた。

 自分に、健吾に気付かせたふわふわの少女の姿を探す。

 だが辺りには人一人見当たらず、川面に、土に、アスファルトに打ち付ける雨音だけが、美弥子の存在を覆うように鳴り響いていた。




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