風の証言者は嘘をつかない
「おいおい、また風が教えてくれた、か?」
馴染みの刑事、佐藤はあきれたように額を押さえた。彼の視線の先で、私、風間 絆は、うらぶれた路地裏のコンクリートに膝をついている。
「ああ。彼女は『あいつが上から落とした』と言っている」
私が指さしたのは、雑居ビルの5階。そこから転落死したとされる女性の遺体は、すでに搬送された後だった。警察の初期見解は「自殺」。遺書らしき日記も見つかっている。
しかし、私の耳には聞こえていた。路地を吹き抜ける、湿った、泣くような風のグラデーションが。
『違う。背中を押されたの。あの男、まだ上にいる。私の上着のポケットに……』
「風間、お前の『耳』が人より良いのは認めるがね」佐藤はため息をついた。「『風の声が聞こえる』なんてファンタジー、裁判所は信じちゃくれない。物証だよ、物証。それがないなら、ただの妄想だ」
「分かっている。だから、これから集めるんだ」
私は立ち上がり、コートの襟を立てた。風の言葉は私にしか聞こえない。だからこそ、私は彼らの言葉を、誰もが目に見える「証拠」という言語に翻訳しなければならないのだ。
第一のヒント:見えない遺留品
被害者・沙織の部屋である5階の一室。すでに現場検証は終わっていたが、私は佐藤の目を盗んでベランダに出た。
ヒュウ、と細い隙間風が私の耳をくすぐる。
『あいつ、焦ってた。私のコート、ひったくろうとして、破けたの。ボタンが、ほら、そのプランターの陰に……』
私はしゃがみ込み、枯れた植木鉢の裏を覗き込んだ。
——あった。黒い、男性ものの高級なプラスチックボタン。
そして、その近くの床には、微かに擦ったような痕跡がある。風が「突き落とされた」と言った位置と完全に一致していた。
「佐藤さん、これ」
ビニール袋にボタンを収めて見せると、佐藤は目を見開いた。
「……チッ。鑑識の見落出しか? だが、これだけじゃ『誰のボタンか』分からないし、事件の瞬間に落ちたとも限らないぞ」
「まだあるはずだ。風は『あの男はまだ上にいる』と言った」
「上? このビルは5階建てだぞ。屋上は施錠されている」
「本当に、鍵はかかっていますか?」
第二のヒント:屋上の境界線
私たちは屋上へ続く階段を上がった。鉄扉の前に立つ。確かに重い南京錠がかかっているが、私が鍵穴に耳を近づけると、内側から吹き出す風がかすかに、金属の擦れる音を運んできた。
『針金で開けたよ。器用な男さ。今もそこに隠れてる。時計の音が聞こえる……』
「佐藤さん、鍵が開いています」
私がノブを回すと、カチャリと音を立てて扉が開いた。
屋上は遮るもののない、強い風の世界だった。風は四方八方から押し寄せ、私に情報を叩きつけてくる。
『貯水タンクの裏!』『タバコの匂い!』『あいつの靴、泥がついてる!』
「誰だ!」佐藤が銃に手をかけながら叫んだ。
貯水タンクの陰から、一人の男が飛び出してきた。沙織の交際相手であり、投資詐欺の疑いでマークされていた男、不破だった。
「な、なんだよ警察! 俺はただ、彼女を追悼しに……」
不破は青ざめた顔で言い訳を並べ立てる。彼のコートの袖を見ると、確かにボタンが一つ、引きちぎられたように無くなっていた。
「不破、お前、なんでここに……」佐藤が足元に目を落とす。「待て、屋上への立ち入りは禁止されているはずだ。ピッキングツールを持っているな?」
「違う! 鍵は開いてたんだ!」
決定的な「翻訳」
不破は往生際が悪く、ボタンについても「以前、彼女の部屋にいたときに取れたものだ」と主張した。自殺説を覆すには、もう一歩足りない。
私は目を閉じ、屋上を吹き荒れる風に意識を集中させた。
風は、現場のすべてを見ている。形のない目撃者だ。
『ねえ、男の靴の裏。沙織の部屋のベランダにあった、あの珍しいハーブの土がついてるよ』
『それから、男のスマホ。胸ポケットに入れたまま通話中だった。さっきの争う声、留守電に残ってるはず……』
私は目を開けた。
「不破さん。あなたが沙織さんの部屋のベランダで彼女を突き落とした時、ベランダに置いてあったカモミールのプランターを蹴りましたね。あなたの高級革靴の泥、科捜研で分析すれば、彼女の部屋のものと100%一致するはずです」
不破の顔から血の気が引いた。
「さらに」私は一歩踏み出す。「あなたが彼女を突き落とした時、あなたのスマートフォンは誰かに発信中、あるいは留守電の録音中だった。胸ポケットから、風に乗って沙織さんの悲鳴と、あなたの罵声が、どこかのサーバーに録音されているはずだ」
「な、なんでそれを……! 誰も見ていなかったはずだ!」
不破はがたがたと震え出し、その場にへたり込んだ。自白と同然だった。
エピローグ
署への連行を見届けた後、私は一人、ビルの屋上に残った。
夕暮れの風が、私の頬を優しく撫でていく。
『ありがとう、探偵さん』
それは、もうここにはいない彼女の、最後の吐息のような風だったかもしれない。
「礼を言うのは僕の方さ」
私は帽子を軽く抑え、目に見えない相棒たちに微笑みかけた。誰も信じてくれない声。だけど、その声がある限り、私はどんな微かな真実も見落とさない。




