第十一話 敵襲
水路の出口を無事に潜り抜けた二人は、すぐさま崩れかけた民家の建物の陰へと滑り込んだ。
目的の蘇原中心部、民の集まる広場までは、あとほんの目と鼻の先だ。
昊夜が周囲の動向を細心の注意で確認しながら、流れるように前へ進む。桜桃はその背中だけを視界に焼き付け、必死に遅れまいと走った。
(ここまで来た。あとは、あの広場まで――)
安堵が胸を過った、まさにその瞬間だった。
不意に、真横の路地から鋭い殺気とともに人影が飛び出してきた。
一人ではない。三人。
それは、水路の異変を察知して動いていた、巡回中の反乱兵の別動隊だった。
先頭に立つ男の目が、背の高い昊夜を通り越し、その後ろにいる桜桃へと向けられる。雪の中に白く浮き立つ、特異な神祇官の衣。
「――女だ! 神祇官がいるぞ!」
その濁った声が冬の冷たい空気に落ちた瞬間、昊夜が動いた。
桜桃の前に素早く割り込み、その小さな身体を背後へと隠す。
――キィン、と鼓膜を震わせるほど鋭い抜刀音が響いた。
「下がれ」
短く、鋭い昊夜の声。同時に、横に伸ばされた彼の腕が、桜桃の肩をぐっと後ろへ押した。
背中が冷たい石壁に当たり、逃げ場が断たれる。
昊夜は桜桃と反乱兵の間に、まるでそびえ立つ壁のように立ちはだかった。視界のすべてが、彼の広い背中で埋め尽くされる。
桜桃は、思わず息を止めた。
「ここを動くな」
有無を言わせぬ一言。
次の瞬間には、鋭い切っ先が空気を切り裂く。敵の刃が真正面から迫り来る。
昊夜は半歩たりとも退かない。正眼の構えを崩さず、その場で真正面から迎え撃つ。
激しく散る火花。刃と刃がぶつかる甲高い金属音が、狭い路地に何度も反響した。
敵も、そして昊夜も、あまりにも近い。
あと一歩踏み込まれれば、自分にまでその刃が届いてしまいそうだった。
それでも、昊夜は一歩たりとも桜桃から離れようとしない。
だからこそ、命のやり取りのすべてが、桜桃の目の前で繰り広げられる。
返り血が、白銀の雪へと赤く飛び散る。一人目の敵が倒れる。
すかさず、二人目と三人目が左右から同時に斬りかかってきた。
背後へ逃げる隙などない。凄まじい踏み込みで、一気に間合いが詰まる。
繰り出される刀の一撃一撃は重く、確実で、そして恐ろしいほどに圧倒的だった。
桜桃は壁に背をつけたまま、浅い呼吸を繰り返しながら、その背中を見つめていた。
――朝凪なら、きっと手を取って引き、敵との間合いを図りながら、自分ごと戦場を動かしてくれただろう。
どんな敵が現れても、「こちらです」と優しく導くその声を信じて走ればよかった。
けれど、昊夜は違う。
「動くな」と命じ、自らが絶対の壁となる。
護られている。それは痛いほど分かった。
それでも、目の前で命のやり取りが続くこの近すぎる距離は、桜桃の胸を激しく締め付けた。
けれど、桜桃は、自分を命懸けの盾にして敵を薙ぎ払うその横顔から、どうしても目を離すことができなかった。警鐘のように激しく鼓動が鳴り響いている。
肉を裂く鈍い音と、乾いた剣鳴が二度。
息を吸って吐くほどのわずかな間に、三人の反乱兵が地に伏せていた。
昊夜は一瞬で、冷酷な軍人からいつもの静寂へと戻り、刀を収めた。
振り返り、まっすぐに桜桃を見る。
「怪我はないか」
「……ない、です」
「そうか」
昊夜はそれだけ言って、すぐに前を向いた。
「行くぞ」
「……はい」
桜桃は一度だけ、彼の背中を見つめた。
当たり前のように自分を護ってくれた、圧倒的な強さ。触れられた肩の熱。
その頼もしさに心拍数が跳ね上がる一方で、壁際に追い詰められたような息苦しさがまだ残っていた。
だからこそ、今の張り詰めた心に、あの甘やかで、ただただ自分を無条件に甘やかしてくれたあたたかさが、無性に恋しくなってしまう。
(朝凪……)
その名を頭の中で呼んだ、その時だった。
不意に、背後から鋭い風切り音が迫った。
「っ!」
伏兵がいた。避ける間もなかった。
ずん、と肩に熱い衝撃が走り、激痛に身体がよろける。
「六花!」
聞いたこともないような焦燥を含んだ声と共に、昊夜の腕が、落ちていく桜桃の身体を強く抱きとめた。
***
一方、蘇原の中心部では。
広場の隅に積まれた食糧の袋が、朝のうちになくなっていた。
朝凪は民の数と残りの水を確認しながら、静かに次の手を考えていた。
そこへ疾風が走ってきた。
「朝凪殿! 食糧が! 食糧がないんですけど!」
「知っています」
「え、知ってるんですか」
「朝から把握していました」
「じゃあなんで」
「言いましたが」
「言いましたっけ」
「今朝、報告しました」
疾風は少し考えた。
「……言ってましたね」
「はい」
「でも! ないのはまずくないですか!」
「まずいです」
「どうするんですか」
「後発隊から食糧を入れてもらうしかありません」
「入れられるんですか、今の状態で」
「……それが問題です」
疾風は、ふと隣に立つ朝凪の横顔を見つめた。
戦の混乱でそれどころではなかったが、こうして落ち着いて顔を見るのは、この陣に入ってから初めてかもしれない。
赤褐色の短い髪、独特の静かな佇まい。
疾風は目を丸くした。
「……あれ? 俺、あんたのこと、どこかで見たような……」
「気のせいでしょう」
「いや、絶対に見ました。ええと、宮廷の宴で……あれ!? 朝凪殿、椎香の恋人……!?」
疾風が大きな声を上げた。
朝凪は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに至って冷静な、平坦な声で言い放った。
「人違いです」
「え? でも、あのとき椎香が朝凪殿の腕を掴んで……」
「人違いです。私は宮廷の宴など出たこともありませんし、その椎香という方も存じ上げません」
「そうなの……? でも、髪の色とか、そのちょっと不機嫌そうな顔とか、そっくりなんですけど……」
疾風は納得のいかない様子で首を傾げた。
朝凪はそれ以上追及されないよう、冷めた視線を広場へと戻す。
「そんなことより、今は食糧の話です、疾風様」
「えっ、あ。……そうですね」
疾風はすぐに真面目な顔に戻り、広場を見渡した。
民が壁際に集まっている。
「……昊夜兄上は今どこですか」
「後発隊と共にいるはずです」
「連絡は」
「取ろうとしていますが、経路が塞がれています」
「じゃあ食糧は」
「……待つしかありません」
疾風は両手で頭を抱えた。
「待つって、いつまでですか」
「それが分かれば苦労しません」
「そんな……」
疾風は辺りを見回した。
子供が泣いている。老人が壁に凭れている。
「俺、何かできますか」
「民を落ち着かせてください」
「どうやって」
「声をかけてください。皇子が来たと思えば、少し安心します」
「俺、そんなに頼りになりますかね」
「頼りになるかどうかより、いるかどうかです」
疾風はしばらく朝凪を見た。
それから、子供が泣いている方へ歩いていった。
子供の前にしゃがんで、何か話しかけている。
子供はしばらく疾風を見てから、泣き止んだ。
疾風がほっとした顔をした。
それからもう一人の子供に気づいて、またしゃがんだ。
朝凪はそれを見ながら、静かに水の残りを数え直した。
そのとき。
広場に、凍りつくような怒声が響き渡った。
防衛線を破った反乱兵が、雪の舞う敷地内へと雪崩れ込んでくる。一人ではない、数人の集団だ。
「朝凪殿!」
すぐ近くで、疾風の鋭い声が飛んだ。
「分かっています」
朝凪は極めて静かに立ち上がった。音もなく腰の刀を抜く。
「疾風様は民を奥へ。避難を最優先に」
「でも、一人じゃ――」
「今すぐです」
有無を言わせぬ響きに、疾風は一瞬だけ躊躇う顔を見せた。だが、すぐに翻って頷き、怯える子供たちの元へと走っていった。
朝凪は一人、前へと出た。
侵入してきた反乱兵は、まだ広場の狭い入り口に固まっている。奥へ広がりきる前に、ここで確実に押し返す。
刀を抜刀する硬質な金属音が冬の空気に鳴り響いた。
一人目の凶刃を流れるような太刀筋で受け流す。二人目の兵が朝凪を無視して民のいる広場の奥へ向かいかけた。
「そちらには、行かせない」
静かな声だった。
その圧倒的な殺気に圧され、二人目の動きが止まる。そのわずかな隙を、朝凪の見切った一歩が容赦なく踏み込んだ。
しばらくして、広場に再び元の静寂が戻ってきた。
子供を両腕に抱え直した疾風が、息を切らせて戻ってくる。足元に転がる手際良すぎる骸を一瞥し、驚嘆の声を漏らした。
「……すごいですね、朝凪殿。本当に一人で片付けるなんて」
「普通です」
「普通じゃないですよ、そんなの」
朝凪は感情の籠らない手つきで、付着した血を拭い、刀を鞘へと収めた。
改めて広場を見渡す。民は無事、怪我人もこれ以上は増えていない。ひとまずは安心、そう胸をなでおろしかけたその時だった。
広場の入り口を固めていた守備兵の中から、一人の伝令が血相を変えて朝凪たちの元へと駆け込んできた。
「ほ、報告します! 後発隊の神祇官一行が、ここへ至る手前の入り口付近にて反乱兵の別動隊と交戦! ――神祇官が負傷した模様です!」
広場を、重苦しい静けさが支配した。
朝凪の双眸が、鋭く伝令を見据える。
「神祇官、とは」
「神祇官の舞姫様です。……肩を矢で掠めた、と。そう斥候からの報せが」
朝凪は何も言わなかった。ただ、その場に立ち尽くした。
疾風が心配そうに朝凪の顔を覗き込む。
「朝凪殿、……大丈夫ですか」
「何がですか」
「いや、なんか……急に顔色が」
「普通です」
「普通じゃないですよ、全然」
朝凪は疾風を見た。
疾風はいつになく真剣な目をして、真っ直ぐ朝凪を見つめている。戦場独特の緊張感のせいか、彼のいつもの軽さは完全に消え失せていた。
朝凪は視線を彷徨わせ、少しの間を置いてから問いかけた。
「……その入り口は今、どうなっていますか」
「完全に敵に塞がれてます。今こちらから打って出ても、突破は極めて難しいかと」
「分かりました」
疾風はなおも複雑そうな顔で朝凪をしばらく見つめていたが、やがて、自分の持ち場である民の避難誘導へと再び歩いていった。
一人残された朝凪は、備蓄されている貴重な水の残量を把握するため、木樽の数を数えようとした。
「一、二、三……」
数字が、どうしても頭に入ってこなかった。
自分が今、いくつまで数えたのかが分からなくなる。
息を整え、もう一度、最初から数え直した。
やはり、滑り落ちるように意識から数字が消えていく。
(肩を、矢で――)
掠めただけだ、と伝令は確かに言った。命に別状はないはずだ。致命傷ではない。
分かっている。頭では、そんなことは痛いほど分かっている。分かっているのに。
朝凪は、水を数えていた手を止めた。
視線が、自然と広場の入り口へと向く。分厚い木戸は、固く閉ざされたままだ。
遠く、外のどこかで、微かに剣戟の音が響いたような気がした。
あそこには、昊夜がいる。刹那もいる。桜桃を身を挺して守れる者が、彼女のすぐ傍には揃っている。
それも分かっているのだ。分かっていても――。
自分の手の届かない場所で、桜桃が傷ついた。
それだけのことが、胸の中をこれほどまで掻き乱す。
朝凪はしばらくの間、微動だにしなかった。
(……私は、動揺しているのか)
珍しいことだった。戦場で、他人の安否にこれほど心を乱され、このような余裕のない顔を自分がするとは、思っていなかった。
疾風が気づいたというのなら、おそらく他の兵たちの目にも、自分の余裕のなさが映っているに違いない。
朝凪は自嘲気味に息を吐き、強制的に視線を手元の木樽へと戻した。
数字を、もう一度、最初から数え直す。今度は雑念を振り払うように、一語一語を頭に叩き込みながら数えた。
頑なに、入り口の木戸から目を離したまま、数え続けた。
ただ。
木戸の向こうで、何かが擦れるような音がするたび、
誰かの足音が近づいてくるたびに。
朝凪の手は、一瞬だけ、どうしても止まってしまうのだった。




