序
後年、この時代を記した書籍の中に、一人の老人の証言が残されている。
老人は言った。『子供の頃、元皇女・桜桃姫を見たことがある』と。
「当時は元皇女だと知らず、彼女が舞姫として舞っているのを見た。白い衣が揺れていた。風が吹くたびに、袖が花びらのように広がり、美しい舞だったことを覚えている。あの舞を見た者は皆、息を呑んで立ち止まった」
老人は懐かしそうに目を細めて遠くを見ていた。
「いつ元皇女だと知ったのですか」と、記録者が問うと、老人はしばらく黙っていた。
それから静かに答えた。
「彼女が処刑台に立ったとき」
──『後記 ある記録書』より
◇
歌うように話す人だった。
誰も聞いていない時でも、用事をしながらでも、一人でいる時でも。鈴を転がすような声で、いつも何かを口ずさんでいた。
上手いわけではなかった。音程が怪しい時さえあった。それでも彼女は止めなかった。
誰かに聞かせるためではなく、ただ自分の中から溢れてくるままに歌っていた。
その姿がひどく眩しくて、ただ隣にいてその歌声を聞いていたかった。
あの鳥籠のような場所から解放して、自由にしてやりたかった。
それだけのことが、どうしてこんなに難しかったのだろう。
気づけば、何度も間違えていた。
良かれと思ってやったことがすべて裏目に出た。
もう隣にいることは出来ないけれど、最後に一つだけ、持っていく。
これだけは返すつもりなどなかった。自分のものにすると決めていた。
けれど、あの人はきっと、「しょうがないわね」と笑って、また歌い出すのだろう。
不意に、あの歌声が聞こえたような気がした。
***
評議の間は、朝から耐え難いほど重苦しい空気に支配されていた。
高い天井に、冷たい表情のまま左右に居並ぶ貴族たち。
そこには、二つの報が同時に届いていた。
ひとつは北からの急報だった。
狄族が国境を越えて攻めてきている、というものだ。
最初に立ち上がったのは、兵部卿の暁だった。
「兵を預かる立場から申し上げます」
すべての視線が、武官の長へと集まる。
「現在、狄族の一部はすでに国境を越えております。前線では朝廷軍が進軍を阻んでおりますが、押し返すには至っておりません。神祇官六花が婚姻を破棄して帰国したとの風聞も広がっており、狄族の中には帝都へ向かうべきだと主張する者もいるとのことです。このまま進軍が続けば、小競り合いでは済みません。戦になります」
短く、それだけを告げて腰を下ろした。
もうひとつの報は、周辺地域からの声だった。
「婚姻の約を破り、神罰が下った。元皇女を処刑せよ」
その声は一つではなかった。二つになり、十になり、評議の間へ届く頃には、もう数えられなかった。
中央の豪奢な台座に、一枚の書状が置かれた。
刑部卿の有馬が、感情を一切排した淡々たる声で読み上げていく。
「咲宮桜桃。皇族でありながら身分を偽り、一年以上にわたり神祇官として宮廷へ潜入し、皇統を欺いた罪」
冷たい声が、広い石造りの間にむなしく響き渡る。
誰も口を挟まない。壁際に並ぶ貴族たちの表情は様々だった。
不快げに眉を寄せる者。ただ静かに戦況を静観するように聞いている者。そして、すでに結論を胸の内で下し終え、退屈な儀式が終わるのを待っている者。
「狄族との婚姻を拒み、国家の方針を覆した罪、斎宮への不法な男の手引きに関与した罪」
有馬は読み終えると、書状を台座へと静かに置いた。
「以上三つの罪により、然るべき処断を申し立てます」
堂内に、重苦しい静寂が満ちる。
最初にその静寂を破ったのは、民部卿の橘だった。
「因州では、すでに舞姫の助命を求める嘆願が出始めております。安易に処断を下せば、その後の地方の混乱も考えねばなりません」
旧貴族たちの声が被さった。
「狄族の怒りを収めるためには、処断以外にないでしょう。婚姻を破ったのはこちらです。誠意を示さなければ、前線はいつ崩れるか」
「皇統の問題もあります」
「元皇女が生きているという事実は、帝位の正統性を揺るがしかねない。今の帝の御代を安定させるためにも、これ以上の猶予は──」
「ですが、処断すれば因州が動きます」と、橘が静かに押し返す。
大蔵卿の鷹取も、援護するように声を上げた。
「内乱が起きれば、我が国の国庫も持ちませんよ」
現実的な金の計算を突きつけられ、場が少しだけ静まる。
「武州復興の莫大な費用も、未だ重く残っております。これ以上の軍事行動は破滅を招く」
その懸念に、何人かが即座に顔をしかめ、声を荒らげた。
「だからこそ、これ以上の猶予なく早急に処断すべきなのだ!」
「国の安定を買い戻すためなら、必要な出費でしょう」
「このまま放置すれば、民が動揺し続けます。朝廷の威信に関わる!」
「皇統に直結する深刻な問題です。長引かせるべきではない!」
保身と焦燥の入り混じった声が、次々と重なっていく。
昊夜は、飛び交う声を静かに聞いていた。胸の前で深く腕を組んでいる。表情は微塵も動かない。だが、その切れ上がった眼差しだけが、凍土のようにひどく冷え切っていた。
「……証拠はあるのか」
よく通る声だった。
場が一瞬にして、水を打ったように静まり返る。
「彼女の三つの罪を示す、確たる証拠だ」
昊夜の問いに、有馬がゆっくりと顔を上げた。
「現時点においては、状況証言が中心です」
「物証は」
「……ございません」
堂内がにわかにざわついた。
「それは……今後の詳細な調査によって明かされるもので……」と、誰かが苦し紛れに言い訳を口にする。
有馬は顔色ひとつ変えず、淡々と続けた。
「刑部としても、現段階で証拠は十分とは申し上げられません」
その不都合な事実の開示に、一部の貴族たちが一斉に顔を曇らせた。
昊夜は視線を貴族たちへと巡らせ、静かに言い放つ。
「まともな調査もせぬまま、感情で処断を求めるというのか」
「しかし昊夜殿、これ以上の猶予は国益を損ないます!」
「証拠もないまま元皇女を処刑すれば、それこそ国が真っ二つに割れる」
昊夜は、絶対的な拒絶を込めて言い切る。
「武州はまだ完全に安定していない。地方の民の心は揺れている。今ここで不当な血を流せば、その反逆の火は必ず別の場所に燃え移るぞ」
重苦しい沈黙が広がった。
やがて治部卿の清明が、扇を動かす手を止める。
「外交上も、看過できない問題がございます」
穏やかな声で続ける。
「狄族へは、今回の帰国が朝廷の命として一方的に婚姻を破棄したものではないことは伝えております。しかし、未だ正式な返答はありません。その状況で、十分な審理もなく桜桃姫を処断すれば、『和平を掲げながら花嫁を欺き、都合が悪くなれば口封じをした国』と受け取られかねません。そのような前例を作れば、今後この国が他国と結ぶ約定の信頼は、大きく損なわれるでしょう」
清明は静かに扇を畳む。
「ゆえに私は、証拠不十分なまま拙速な処断には反対いたします」
続いて、宮内卿の赤楊が場を見渡し、口を開いた。
「八重御所の変以降、我が国が多くの皇族を失ったことは、ここにいる皆様もご承知のはずです」
赤楊は一度言葉を切り、台座に置かれた書状へ目を落とした。
「その中で、薨じたものと思われていた先帝の皇女が生きていた。にもかかわらず、十分な証拠も揃わぬまま、今度は我ら自身の手でその命を絶つというのでしょうか」
「しかし、その皇女自身が皇統を乱しているのですぞ」
すぐさま反論が飛ぶが、赤楊は眉ひとつ動かさなかった。
「私は彼女が無罪と申し上げているのではありません。ただ、一度失えば取り戻すことのできぬ皇族の命を、確たる証拠もないまま処断することに、宮内卿として賛同はできません」
その時、それまで静観していた雲英が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「逆に申し上げれば、その罪が事実であるならば、どれほどの皇族であろうと厳正に裁かねばなりません」
雲英の放った一言に、先ほどまで気圧されていた数人の貴族が、力を得たように深く頷いた。
すかさず、昊夜が反論する。
「だからこそ、確かな証拠もなく動けば後に巨大な禍根を残すと警告している」
昊夜の声は変わらない。静かに、激情を押さえつけ続けている。
黙って聞いていた一人の老臣が昊夜へ視線を向けた。
「しかし昊夜殿。一番の問題は、狄族との婚姻を拒んだことや、斎宮への不法な男の手引きに関与したことについての正否ではなく、第一の罪です」
昊夜が鋭い瞳で老臣を見返すが、老臣は怯まず続ける。
「神祇官は代々、皇統の記録を管理し、その正統性を司ってきた機関です。その神祇官に、自ら皇統を秘した皇女が入り込んだ。この前例を認めれば、神祇官そのものの権威が失われます」
堂内に小さなどよめきが広がる。
「神祇官が管理する皇統の記録に、神祇官自身が例外を設けたとなれば、今後、皇統の正統性そのものを誰が信じるのでしょう。これは一人の皇女を裁くかどうかだけの問題ではありません。国家の根幹に関わる問題なのです」
居並ぶ八省卿を順にゆっくりと見渡す。
「諸卿の懸念は承知している。戦になるやもしれぬ。国庫も傷むだろう。地方にも混乱は起きよう。だが、それを恐れて皇統そのものを揺るがす前例を残せば、我々は何をもってこの国を国たらしめるのか」
「だからといって、命を狙われた皇女に死を選べと言うのか」
老臣は答えなかった。
一人の貴族が、窓際へ視線を向けた。
「……神祇官長、八意殿」
名を呼ばれ、雅が顔を上げる。
「この件、神祇官としてはいかがお考えですか」
雅は一拍だけ間を置いた。
「神祇官は、政治に関与いたしません」
「神祇官として、お尋ねしているのです」
「神祇官は、皇統を管理する機関です」
「だからこそ伺っている!」
思わず声を荒げる貴族。
しかし雅は少しも動じない。
「神祇官は、政治に関与いたしません」
雅はそれ以上、何も語らなかった。
だが、場の空気はすでに、別の引力によって傾き始めていた。
壁際の貴族たちは互いに視線を交わし合っている。言葉にしなくとも、彼らの本音は透けて見えていた。
今の宮中で、一体誰が最も「不都合」なのか。
誰が次代の足かせになりうるのか。
彼らが恐れているのは、桜桃の犯した罪などではない。
「昊夜殿」
大納言・蘇芳が、昊夜をまっすぐに見つめた。
「私どもは、桜桃姫のお人柄や徳を問題にしているわけでは決してありません。彼女の存在自体が問題なのです」
あまりにも穏やかで、慈悲深い声だった。だからこそ、次に紡がれた言葉が、余計に凍てつくほど冷たく室内に響き渡った。
「桜桃姫の血筋は、和の国において何代にも渡って帝の位に就いてきた正統。この朝廷において、最も皇統順位が高い。……それに加えて、神祇官として各州を巡り、地方の民たちの絶大な民望まで得てしまわれた」
昊夜の目が、ゆっくりと見開かれる。
「民というものは、血筋だけでは容易に動きませんが、受けた恩には命を賭して動くものです。正統なる皇統と、熱狂的な民望。その双方を兼ね備えた御方を、謀反の旗印とする不届き者が、この先現れないと言い切れますか?」
蘇芳は、残酷な現実だけを並べ立てる。
「これは感情の話ではありません。この先、国を保ち、無駄な内乱を防ぐために必要な判断なのです」
「……」
「昊夜殿。あなたは今まで、より多くの民を救うため、救えぬものを切る決断をしてこられた。すべてを救おうとして国そのものを失うより、何を残し、何を諦めるべきかを選ぶ。それこそが、上に立つ者の責であると――あなたは、ずっとそのようにしてこの国を守ってこられたはずだ。今さら、そのご自身の理を覆されるのですか」
昊夜は答えない。いや、答えることができなかった。
少なくとも、これまで自分が掲げてきた理だけでは、否定することができなかった。
蘇芳の紡いだ言葉は、かつての自分であれば、迷わず深く頷いていたであろう「正論」そのものだった。
すべてを救えぬのなら、より多くを残すために、何かを切る。それが上に立つ者の務めだと信じてきた。
――だが、今は違う。
彼は知ってしまった。記号としての皇族でも、都合のいい旗印でもない、一人の血の通った人間を。
名ではなく。皇統でもなく。
「六花」という、ただ懸命に生きようとしていた一人の少女を、知ってしまった。
だから、かつての冷酷な理だけでは、どうしても割り切ることができなかった。
やがて、重苦しい空気のなかで採決が行われた。
処断を求める声が、慎重な保留を求める声を、確実に上回っていく。
保たれていた均衡が、完全に崩れ去った。
昊夜は身じろぎ一つしなかった。ただ腕を組んだまま、虚空帝の正面を見つめている。
文官の手によって、処断を決定する書状へと正式に墨が入れられていく。紙が擦れる乾いた音が、静かな間に残酷に響いた。
──処断。
そのおぞましい言葉が、これで朝廷の公式な決定となった。
壁際の貴族たちが、安堵の混じったざわめきを始め、誰かが「これで安心だ」と小さく呟くのが聞こえた。
昊夜は、一度だけ深く瞼を閉じる。
再びそれを開いた時、その漆黒の瞳には、もう何一つとしての感情は映っていなかった。
「処刑の執行は保留とする」
昊夜の静かな声に、広間に集う者たちが一斉に昊夜に視線を向けた。
「狄族は帝都へ向けて兵を進めようとしている。この状況で元皇女を処刑すれば、戦火に油を注ぐことになる」
昊夜は鋭い視線を走らせ、居並ぶ大臣たちを見渡す。
「狄族への対応を最優先とする。まずは、一刻も早く兵を退かせなければならない」
「ですが、処断は既に決まりました!」
一人の貴族がすかさず反論の声をあげるが、昊夜は一歩も引かなかった。
「だからこそ、執行の時機を誤ってはならない。国が滅びては元も子もない」
昊夜の強い押し返しにより、処刑の即時執行は辛うじて保留とされ、緊迫した空気のまま評議は解散となった。
「清明殿」
部屋を出ようとする清明を、昊夜が呼び止めた。
「狄族の件は任せる」
清明は足を止め、穏やかに振り返る。
「承知しました」
「頼む」
清明は小さく頷き返し、そのまま部屋を後にした。
昊夜は背後を振り返る。
「……千弦」
千弦が気配を消したまま傍らへ寄る。
「行くぞ」
「はい」
交わされたのは、それだけだった。




