【第1章】【第1節】教室の空気モブである俺の正体はネットの覇者だが、隣に転校してきた国民的アイドルにバレないよう必死に気配を消している
第1章 推しの神様、実は俺
第1節 教室の空気モブである俺の正体はネットの覇者だが、隣に転校してきた国民的アイドルにバレないよう必死に気配を消している
俺、音無リツの高校生活におけるステータスは「空気」だ。
クラスカーストにおいては最下層ですらない。壁の染みや、窓枠の埃と同じ、背景美術の一部。それが俺の立ち位置だった。
休み時間になれば、愛用のノイズキャンセリングイヤホンを耳にねじ込み、周囲の喧騒をシャットアウトする。そして、型落ちのノートPCを開き、ひたすらキーボードを叩く。それが俺の日常であり、聖域だった。
「――ねえ、聞いた? 今日の転校生、マジでヤバいらしいよ」
「えー、どうせ噂だけでしょ? CMに出てるあの子が来るわけないじゃん」
イヤホンの隙間から、クラスメイトたちの浮ついた声が漏れ聞こえてくる。
どうやら今日は、特大のイベントが発生するらしい。だが、俺には関係のない話だ。俺が画面上で組み立てているのは、複雑怪奇なベースラインと、不協和音スレスレのシンセサイザー。
俺は、ネット上で『ノイズ』という名前で活動している。
顔出しは一切なし。投稿した楽曲の総再生数は億を超え、若者を中心にカルト的な人気を誇っているらしい。
……らしい、というのは、俺自身がいまだにその事実を飲み込めていないからだ。
俺にとって曲作りは、日々のストレスや鬱屈した感情を吐き出すための排泄行為に過ぎない。
誰かに聞いてほしいわけじゃない。ただ、自分の中に溜まった黒い澱を音に変換して、ネットの海に垂れ流しているだけ。
だから、世間が『ノイズ』を「天才」だの「時代の寵児」だのと持て囃すたびに、俺は冷ややかな気分になる。
みんな、どうかしてる。これはただの雑音だぞ。
そんな俺の冷めた思考をよそに、教室の扉がガラリと開いた。
「初めまして。今日からこのクラスでお世話になります、奏音ミウです」
一瞬、教室の空気が真空になったかと思った。
黒板の前に立っていたのは、テレビで見ない日はない国民的アイドル、奏音ミウその人だった。
サラサラと流れる亜麻色の髪。陶磁器のように白い肌。そして、作り物めいて整った顔立ちには、営業用の一〇〇点満点の微笑みが貼り付いている。
教室内が爆発したような歓声に包まれた。男子は野太い声を上げ、女子は黄色い悲鳴を上げる。
俺はそっとイヤホンの音量を上げた。
関わりたくない。住む世界が違いすぎる。
彼女は光の住人。俺は影の住人。交わることなど万が一にもありえない。
そう思っていたのに。
「えー、それじゃあ奏音さんの席は……音無の隣が空いてるな。そこを使ってくれ」
担任の無慈悲な宣告に、俺は思わずPCを落としそうになった。
クラス中の視線が、一斉に俺――の隣の空席へと突き刺さる。その余波だけで焼け死にそうだ。
ミウは優雅に歩みを進め、俺の隣の席に鞄を置いた。
ふわりと、柑橘系の香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
俺は石になろうとした。存在感を消し、ただの背景オブジェクトとしてやり過ごすのだ。
だが、彼女は椅子に座るなり、周囲には聞こえないほどの小声で、俺に向かって言い放った。
「……先に言っとくけど」
天使の微笑みはそのままに、声の温度だけが氷点下だった。
「私のプライベート、詮索しないでよね。サインも写真も断るから。話しかけないで」
強烈な牽制球だった。
どうやらこの国民的アイドル様は、テレビで見せる顔とは裏腹に、相当性格がキツいらしい。あるいは、業界の荒波に揉まれて擦れきってしまったのか。
どちらにせよ好都合だ。
「了解。俺も空気みたいなもんだから、気にしないで」
俺がボソリと返すと、ミウは意外そうに眉をピクリと動かした。
普通ならここで「ファンなんです!」とか「LINE教えて!」とか食い下がるところなのだろう。
だが残念だったな。俺の興味は、目の前のPC画面にある波形データだけだ。
俺は再び画面に向き直り、作業を再開した。
これが、俺と彼女のファーストコンタクト。
最悪に近い出会いだったが、これで平穏な「無視し合う関係」が築けるはずだった。
――その画面を、彼女に見られるまでは。




