人事部は今日も人手不足
都内にある駅近の雑居ビル。その一室で、彼女は今日も人事の仕事をしていた。
中小企業。社員数は百人に届くかどうか。
大企業のような安定もなければ、家族経営のような身軽さもない。取引先には頭を下げ、社内では各部署の調整役を押しつけられる、ごくありふれた会社だった。
ただし、人事部だけは例外だった。
名刺には「人事部」と印字されている。
だが、現在この会社で人事の仕事をしているのは、彼女ひとりである。
本来、人事部には人がいた。
新卒採用を担当する者。中途採用を専門にする者。労務を見ている者。教育を任されている者。総務と兼任している者も含めれば、最低限の体裁は整っていたはずだった。
それが、辞めた。
異動した。
産休に入った。
戻ってこない。
戻ってくる予定だった人間は、戻る前に別の部署で「今は手が離せない」と言われた。
「一時的だから」という言葉が、どれほど信用できないかを、彼女はよく知っている。
デスクの上には、今日も紙と通知が積み上がっていた。
未処理のメールは二百件を超え、社内チャットは赤い未読表示を点滅させ続けている。机の隅には、封筒に入った退職届が一通、まるで置き忘れられた異物のように置かれていた。
見て見ぬふりをしているわけではない。
ただ、そこまで手が回らないだけだ。
午前中は労務対応に追われた。
勤怠が破綻している部署の管理職に呼び止められ、「残業申請が間に合わない」と泣きつかれる。給与計算の外部委託先からは、丁寧な言葉で締切遅れを指摘される。
社会保険の手続きは、昼食を取る代わりに片付けた。
空腹は、もはや生活の一部になっている。
午後は採用だった。
求人媒体の担当者と画面越しに打ち合わせをしながら、同時に面接日程を調整し、内定承諾のリマインドを送り、さらに現場へ「面接官は誰が出ますか」と連絡を飛ばす。
返事は、だいたい来ない。
来るときは、決まってこうだ。
「誰でもいいから、とにかく採れない?」
誰でもいい。
その言葉を聞くたびに、胸の奥が少しずつ削られていく感覚があった。
夜は教育対応だ。
新人研修の資料を作る。
本来なら会議室を押さえ、対面で行うはずの研修は、時間も場所も足りず、簡易的なオンライン資料で済ませるしかない。質問が来たらチャットで返す。
現場のOJT担当は忙しすぎて、教育どころではない。
だから新人は迷子になる。
迷子になった新人は、不安になる。
不安になった新人は、体調を崩す。
休んだ分を、誰かが補う。
補った誰かが疲れ、余裕を失い、やがて辞める。
辞めた穴を埋めるために、また採用する。
だが、育てる人間がいない。
組織は、こうして少しずつ歪んでいく。
会社は歯車でできていると言われるが、その歯車はすべて人間だ。
そして人間は、簡単に替えが利くものだと思われている。
その現実を、彼女は毎日見ていた。
肩は重く、視界はぼやける。
パソコンの画面の文字が滲むことがあったが、それは涙ではなく、単なる疲労だった。コンタクトレンズも、限界を超えている。
時計を見ると、二十三時四十分。
終電の時間だ。
「……帰ろう」
そう呟いた声は、自分でも驚くほど平坦だった。
帰る、という行為が特別ではなくなって久しい。
コートを羽織り、オフィスの電気を落とす。
エレベーターの鏡に映った自分の姿は、どこか他人のように見えた。
終電間際のホームには、人影がまばらに立っている。
スーツ姿の男。スマートフォンを見つめる女。コンビニ袋を下げた若者。
みな、帰る人間だ。
電車に乗り込み、座席に腰を下ろす。
車内は静かで、空調の音だけが耳に残る。吊り広告が揺れ、無音で笑っている。
背中をシートに預け、目を閉じる。
意識が沈みかけた、そのとき。
仕事の光景が、浮かび上がった。
面接。
配属。
教育。
退職。
人事の仕事は、最初から最後まで人と向き合う仕事だ。
それにもかかわらず、多くの判断は数字と効率で下される。
一人一人の向き不向きを知らないまま配属を決め、短い面接だけで人物像を断定する。勤務時間が崩壊しているのに、人を増やせば解決すると考える。
教育が追いつかないまま採用を急ぎ、その間に中堅が辞めていく。
すべてが、場当たり的だった。
そのツケを払うのは、いつも同じ立場の人間だ。
電車が揺れ、目を開ける。
降りる駅に着いている。
改札を抜け、夜の住宅街を歩く。
街灯の光はあるのに、足元はどこか心許ない。
交差点に差しかかった、その瞬間。
大きな音が響いた。
金属が擦れる音。ブレーキの悲鳴。視界を裂く白い光。
車だった。
――あ、死ぬ。
驚くほど冷静に、そう思った。
次の瞬間、世界が白く弾けた。
そして。
天井が見えた。
白いが、病院の蛍光灯とは違う。
柔らかく、どこか温度を感じる色の天井。
体を起こそうとするが、うまく動かない。
痛みはない。ただ、感覚が鈍く、自分の体が自分のものではないようだった。
声を出すと、思いのほか高い音が出た。
周囲を見渡し、息を呑む。
そこは病室ではなかった。
天蓋付きの大きなベッド。
金糸の刺繍が施された白いレース。
宝石のようにきらめくシャンデリア。
壁には豪奢なタペストリー。
床には厚い絨毯。
絵本が並ぶ本棚が、やけに目についた。
夢にしては、あまりにも現実的だった。
自分の手を見る。
小さい。驚くほど小さい。
頬に触れた髪は、淡い金色だった。
よろよろと窓へ近づき、ガラスに映る姿を見る。
そこにいたのは、豪華な服を着た幼い少女だった。
その姿と目を合わせたまま、しばらく動けずにいる。
そして、部屋に響き渡る声で叫んだ。
「……なんじゃこりゃあああああ!!」
こうして、彼女の人生は――
まったく予想外の形で、幕を開けた。
第一話 終わり




