第1話 「家出」
夜の森を走っていた。
水たまりを踏み鳴らし、轟く雷の音を聞く。
木の根元は滑らかになっていて、バランスを崩さないように足に力を入れた。
「クソ」
俺は立ち止まり、後ろを振り返った。
魔王城。
真っ黒い岩のようなそれは、こちらを睨むかのようにそびえ立っていた。
憎しみを込めて、睨み返す。
さらに城の後ろには大火山があり、こちらを猛々しく見下ろしている。
父である魔王が破壊の象徴として崇めていたものだ。
いっそあれが噴火してくれれば、奴ごと死んで魔族は終わりなのに。
ああ、これからどうしようか。
再び走り出す。
城の大騒動に乗じてせっかく家出したのに、この天候だ。
祝福されていないのか。
俺は次期魔王として育てられた。
奴を継ぎ、魔族をさらなる繁栄へと導く存在。
それ以外はない。
厳しい訓練、誰一人として、対等に笑い合えた存在などいなかった。
辛かった。
だから逃げ出した。
魔王なんて勇者に殺される運命なんだ。
例えそのときは勝ったとしても、いずれ別の勇者が立ち上がる。
なってたまるか、そんなもの。
森を抜けた。
幅の広い道に出た。
左右にはいくつかの木々。
かすかな太陽の光を頼りに進む。
草を揺らす音がした。
加えて、木々が軋むような音。
右を見た。
立ち止まる。
その瞬間、大きな黒い塊が飛び出してきた。
背負っている剣に手をかけて、ゆっくりと抜く。
そいつは俺の目の前で立ち止まると、巨体の割に小さな目をこちらに向けた。
鮮血で浸されたように染まっていて、まっすぐとこちらを射抜いている。
吐く息は荒い。
魔物だ。
二足歩行の怪物で、牛のような角が頭に生えており、俺の背丈より遥かに大きい。
筋骨隆々とした体は鉄のように硬く見える。
目を逸らすことなく近づいた。
相手も逸らさない。
鼻先に立った俺は、まっすぐに剣を振り下ろした。
そいつは避けることはしなかった。
いや、出来なかったのだろう。
体中からすでに流れていた血が、くっきりとそれを証明していた。
一切の叫び声を上げることもなく、相手は真っ二つになった。
地面に突っ伏す音は、雨音の陰に埋もれた。
無感動に俺は見下ろす。
雨と血が混ざり合い、気色の悪い匂いが鼻をついた。
無様な死。
俺も、こうなるのだろうか。
森を追い出された獣はどこにも受け入れてもらえない。
そして朽ち果てる。
雨は、それでも降りしきる。
そのとき、光が見えた。
獣が出てきた木々の奥。
緑色の光がぼうっと輝きを増している。
なんだ?
剣を背中に仕舞い、光の方へと向かった。
歩みを進めるにつれ、輝きは増すばかり。
強い魔力を感じた。
魔法?
なおさら不思議に思う。
こんなところで何をしている?
しかも、緑色の光など見たことがない。
光が弱まった。
立ち止まる。
じっと、か弱く、小さくなっていく光を見つめる。
拳大にまで縮んでいく。
二つの影。
さっきまであった光の中に、誰かいる。
一人は地面に突っ伏していた。
もう一人はその横に座っている。
自らの喉に、ナイフを突きつけて。
二人とも、魔力がかなり減衰している。
死の崖っぷちという感じだ。
俺は近づいた。
ナイフを持っている方がこちらを向いた。
真っ白い肌に、頭に角は生えていない。
人族か。
女であろうと思われる細身の体に黒い髪、青い服を着ている。
目は曇っており、ナイフを持つ手はかすかに震えている。
だが、相手は動かない。
いやさっきと同じだ。
動けない。
もしかすると、さっきの魔物と相討ちになったのかもしれない。
女の前に立った。
「ア⋯⋯ア⋯⋯」
ぐしゃりと潰されたような声をそいつは発した。
恐怖で濁った目がこちらを虚ろに見ている。
倒れている方の男に目をやった。
若い男で、血溜まりの上に浮かんでいる。
その横には、一振りの剣があった。
大事そうに布の上に置かれている。
俺は、刀身に目を奪われていた。
一切の綻びを見せない刃。
何より、美しく彫られた竜の紋章。
それは、子どもの頃から何度も教えられてきたものだった。
我らが宿敵。
勇者の証だ。




