第10話 「運命」
男は俺をそう呼んだ。
二本の角、灰色の肌、黒い衣。
地面に膝をつき、頭を下げている。
「ずっと、お待ちしておりました」
俺は何も言わなかった。
ただそいつの頭を見つめてじっとしていた。
沈黙が流れる。
森の奥から、ぞろぞろと男たちがやってきて、丁寧に松明を地面に置き、跪く。
その数、百人以上。
見渡せないほどの集団。
静かになった。
どうやら全員らしい。
「魔王様」
再び、そいつは言った。
知っている。
当然こいつを知っている。
魔王の側近を務めていたミガルドという男だ。
有力な家の出で、卓越した頭脳と武で成り上がった魔王に次ぐ位の存在。
国のためならかつての仲間を殺すことも辞さない冷酷な性格をしている。
別に良い思い出はない。
たまに会話をしていた程度。
「人違いだろう」
俺は言った。
「とんでもございません」
ミガルドは顔を上げる。
「生きていたのか」
「はい。たまたま外の任務についていた故、助かりました」
「他には?」
「同じく任務についていた部下と、似たような状況にあった民のみです」
「そうか」
「お父上は⋯⋯」
「分かっている」
俺は答える。
「それで?」
「決まっております。
先王は生前、あなたを次期魔王にと、そう仰せになっておりました」
「だろうな」
「城は滅びました。周囲の街も壊滅寸前です。
このままでは人族の魔の手から逃れられません」
「だろうな」
「皆、ご帰還をお待ちしております」
ミガルドは再び頭を下げた。
背後にいる者たちも、ただただ静かに頭を垂れている。
変わらない景色。
分別もつかず、何が善で何が悪かも分からない頃から、こいつらはずっと俺のことを敬ってきた。
そういう態度を取ってきた。
しかし、決して敬われることのない人族の社会で過ごしてみて分かった。
これは、俺に向けられたものではない。
『魔王の息子』という肩書に向けられたものだ。
それが運命なのだろう。
分かっている。
俺は器なんだ。
きらびやかな金で造られた器。
中に何を注ぐかは周りの奴らが決める。
じっとしているしかない。
しかし、俺は一度その中身を捨て、全く新しいものを注いでしまった。
そちらの方が温かく、心地よかった。
「俺は戻らん」
「しかし⋯⋯」
「戻らん」
「しかし魔王⋯⋯」
「その言葉を口にするな!」
俺は剣を抜き、ミガルドに向けた。
風圧で彼の髪が揺れる。
ミガルドは押し黙った。
「すまない」
剣を収めた。
ミガルドの顔を一瞥する。
それから後ろを向き、歩き出した。
二度と戻ってたまるものか、と思った。
こいつらの思い通りになってたまるものか、とも思った。
それは父への反抗だったのか、魔族への反抗だったのかは分からない。
あるいは自分への反抗だったのかもしれない。
焼け焦げた匂いが未だに充満している。
呪いのように纏わりつく。
振り払うように進む。
袖を見ると、ローブの端が少しだけ焦げているのに気づいた。
「魔王様」
背後で、ミガルドが呼んでいる。
「魔王様!」
何度も呼ぶ。
「魔王様!!!」
遠ざかっているのに、声は大きくなっている。
不快な声が、炎々と燃え上がっている。
そして声は止み、自分の足音だけが森に響いた。
振り払った。
後ろは向かない。
もう、俺は戻らない。
だが、立ち止まった。
いや、立ち止まるしかなかったのだ。
足元を見る。
灰色の何かが足首に巻き付いている。
指だ。
「お願いします!! あと少し!! あと少しで!!
民も国も滅ぶのです!!」
「知らん」
「魔族の運命に関わるのです!!」
「見苦しいぞ」
振り返ってしまった。
ミガルドは、地面に額をこすりつけ、俺の足首を両手で掴んでいた。
頭の上に、ぽつぽつと雪が降っている。
「お願いします⋯⋯」
少しだけ、ミガルドの声が小さくなった。
「私には、子どもが三人と孫が五人おります」
消え入りそうな声。
「家は焼け、人族の略奪に怯える日々⋯⋯。
食わすものもありません。
皆の心は散り散りです。
まとめる者がいないからです」
握る手はより強く。
「ご要望とあらば!! 足でも舐めましょう!!
そして舌を引き抜き!! 破壊神にでも捧げましょう!!
魔王様!! 皆の心をまとめてください!!」
そう言うとミガルドは手を離し、正座をした。
腰から剣を引き抜く。
右手は剣の柄に、左手は刀身に。
真っ二つに折った。
「これが、私の願いです」
ミガルドは正座のまま、俺の目を射抜いた。
炎のような真っ赤な目。
左手は流血している。
地面には、無惨に折れた彼の剣が転がっている。
何も言えなかった。
ただ、目と目が合っているだけ。
ミガルドの強力な精神を、直視しているようだった。
もう、何も分からなかった。
何をすればいいのか、これからどう生きていけばいいのか、自分で決めるべきなのか、誰かが決めてくれるのか。
ただ一つ、分かったことがある。
彼らは俺の肩書きしか見ていない。
『魔王の息子』という肩書きしか。
だが、その目は本気なのだ。
見ている対象は関係ない。
何を見ていようが、どう見ていようが、彼らにとってはそれが真実だ。
誰も、自分の見て欲しい部分しか見てくれるわけではない。
自分の見たいところを見る。
俺もそうだ。
自分の見たいものを求めて飛び出した。
そして出会った。
『他にできることがなかったんだ』
カインの言葉を思い出した。
そう言って人懐っこく笑う彼の顔。
運命。
一人の人生においてできることは限られており、自由に選べるわけではない。
不可能が積み重なり、その隙間からできることが見えてくる。
それが、目の前にある。
呪いのように。
救いを求めるように。
カインなら何と答えるだろう。
あいつは優しいから、こんな状況放っておけないだろうな。
きっと、救いの手を取る。
だが⋯⋯今さらどうしろと⋯⋯?
魔族を捨てた俺が⋯⋯。
今さら⋯⋯。
思考や感情が拮抗していた。
競争でもするかのように、太陽と月が入れ替わるように。
あいつのように真っ直ぐには、生きられない。
「そして勇者のことですが、実は姿を消しているとか⋯⋯。
今は好機かもしれません」
その言葉に、返答はしなかった。
できなかった。
頭に詰まったものが、失くなっていくように感じていたのだ。
心の中の暗雲が散っていった。
空を見上げると、雪が止んでいた。
ああ。
そうか。
だったら俺は──。




