メメント・モリ*6
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ナビスは、死が救いだと知っている。
それは、ナビスの母……聖女アンケリーナが死んだ時に、そう、深く思ったのだ。
救いだ。死は、救いなのだ。救いでなければならない。
死が救いでなかったのなら……遺された者達は、あまりにも、悲しい。
ナビスは、『死』が……それを信じることが、生きる者達にとっての救いであることを知っている。
同時にナビスは、生きていても救いがもたらされることがあるのだと、知っている。
ナビスを助けてくれるポルタナの皆。アンケリーナの死を引きずりながら、献身的に支えてくれるシベッド。そして、ミオ。
皆と共に過ごす日々は、決して、不幸ではなかった。苦しいことが無かったとは思わないが、同時に、嬉しいことが無かったとも思わない。
……そして、こんな自分でも誰かを救うことができるのだというその感覚は、確かに、ナビスを救い、ナビスを支えてきた。
自分が次の聖女として、ポルタナに立っているそのこと自体が、ある種、ナビスにとっての救いだった。
ポルタナを支えなければならない重圧感に圧し潰されそうになることもあった。実際、ミオが来る直前まで、ナビスは相当に追い詰められていた。それは、今振り返ってみればよく分かる。
だが……今、ナビスは、救われている。
多くの人に救われ、そして、多くの人を救うことで、ナビスもまた、救われて。
死の安寧を祈りながらも、生きる幸福を感じている。
そして何より、ナビスは『聖女』である。
聖女は、人を導く存在だ。人々の苦しみをやわらげ、人々を喜びで満たし……人々の祈りを束ね、世界をよりよくしていくための存在だ。
だからナビスは、人々の可能性を知っている。
人々の祈りが、確かな形となって幸福をもたらすことを知っている。
……『死』が無くとも、人々が救われることを、知っているのだ。
ナビスは、只々戸惑う聖女モルテの手を握った。
「ねえ、聖女モルテ。『死』を見つめた私達が、『死』に救いを見出し……その上で、生きたいと願うのは、間違っていますか?」
ナビスの言葉に、聖女モルテの目が揺れる。その紫水晶のような瞳に、ナビス自身の顔が映っていた。
「あなたが救ってくれるから、それを支えに生きられる人が居る。全ての生に終わりがあることが分かっていて、最後の逃げ場は担保されていて……だから、頑張れる。それは、間違っていますか?」
聖女モルテは、ふ、と目を逸らし、睫毛を伏せた。
「……間違っては、いないのかもしれない」
聖女モルテ自身に、何か思うところがあればいい、とナビスは思う。自分勝手かもしれないが、聖女モルテがこうして悩んでくれること自体が、ナビスにとっては嬉しいことだ。それはつまり、何か思い、何か考えてくれているということなのだから。
「でも、愚かだわ」
「……それでもあなたは、そんな人々をも、救ってくれるでしょう?」
死は優しい。
全ての人を受け入れてくれる。誰一人だって、拒まない。
……そう。聖女モルテは、死なのだから、優しいのだ。誰も拒まず、全ての人を救う。『救いたいと思っている』。
だからきっと、聖女モルテは『聖女』としての形を取って、ここに居る。
ナビスは、聖女モルテの手を握ったまま、じっと、その瞳を覗き込む。
2人の聖女が見つめ合い、そして、互いに救いを求めるような顔をしていた。
「メメント・モリ。……『死』を見つめることで、私は、生きていられる。『死』が居るから」
「メメント・モリ……」
ミオに教えてもらった言葉を、ナビスはそっと、聖女モルテへ告げる。誰かを救うことを喜びとする、誰より優しい『死』自身へ。
「『死』が人に与える救いの1つの形だと、そう、思います」
死は、人を受け入れること以外にも、人を救ってくれる。
それが、『メメント・モリ』なのだろう。『死を想う』。それが、人の心を救い、生きる活力を生み……或いは、約束された最期の安寧を心の支えにして、また理不尽な生へと立ち向かうことができる。
ある種、ナビス自身もそうだ。
『死』が約束された安寧なのだと、そう信じることによって、ナビスは、自分の母の死を乗り越えてきた。
『死』が安寧であることは、遺される人々にとっても救いとなる。ナビスは救われてきた自身の経験から、それをよく知っている。
死ななくても、いい。ただ、『死』が隣に居てくれるだけで。それだけで人は、救われる。
「人を救いたいとお考えなら、どうか、ただ、傍に居てください」
ナビスは聖女モルテへと語り掛ける。かつての自分、そして未来の人々の為に、祈るような気持ちで。
「世界の終焉は、まだ、来なくてもいい。……まだ、人々は頑張れます。頑張りたいと願う者も、多いのです。そうして生きるために祈る心が、世界をきっと、より良くしてくれる」
ナビスは人々の生を祈る。そこに幸福が無いわけではないと知っているから。
だから……だから、ナビスは、『死』へ、伝えなければならない。
「だから、聖女モルテ。……どうか、人々を死へと誘うのではなく……やってきた人だけを、その時、迎え入れてください。あなたの御腕は優しいけれど、誰かを捕らえるために振るわれたら……悲しいから」
……ナビスの言葉に、聖女モルテは、そっと、どこか諦めたような、ほっとしたような顔で頷いた。
気づけば、太陽の光は少しばかり、傾いていた。冬の昼間は短い。もうじき、夕暮れ時となるのだろう。どこか弱弱しい太陽の光が木の枝の間から降り注いで、聖女モルテを柔らかく照らしていた。
「死を嫌う者は、多い。死が救いだと認めない者も、死は救いではなく報いであると信じる者も、多く居ます。かつての姫君を殺した王は、死を報いであると感じていたからこそ姫君を殺したのです。そして今の王もまた、死を遠ざけようと躍起になっている。死を忌み嫌って……死に救われる者の心を知ろうともせず……」
聖女モルテの言葉は、どこまでも重い。
『死』としては受け入れてもらえないことは悲しいことだろうし……何より、聖女モルテの、かつての姿。『姫君』としては……死に救いを感じない人々、つまり、姫君を殺す側であった人間達への憎しみがある分、より複雑だろう。
「ですから、私は今後も、『死』を布教し続けます。この教えは、間違っていないと、思うから」
だが、複雑に思いながらも、聖女モルテは世界の終焉を肯定し続けてはいられなくなってしまったらしい。
「……しかし、生きることもまた、あなた達にとっては救いなのかも、しれませんね」
そう言って、聖女モルテは寂し気に笑う。
「それに、美しいから」
「え?」
ナビスが思わず聞き返すと、聖女モルテは微笑みながら、そっとミオを示す。
「生きることを諦めない者の姿は美しい。それは、私にも理解できますから」
ミオはそんなことを言われてたじろいでいたが、ナビスには聖女モルテの言うことが分かる。
……ミオを見ていると、その生命の煌めきを見ているようで、どこか眩しい。憧れにも似た気持ちが湧き起こってきて、気づけば、何か行動したくなってしまっている。
生きたくなるのだ。ミオを見ていると。
だって、生きる彼女の姿が、美しいから。
……生命の美しさは、『死』にも伝わるらしかった。
「聖女ナビス」
「はい」
ナビスは、顔を上げて聖女モルテを見つめる。
「……ありがとう。私に新たな希望を与えてくれて。それでいて、私を、信じてくれて」
ざっ、と風が吹く。冬の風は、夕暮れが近いことを知らせるかのように、冷たい。
「どうか、これからも『死』を忘れないで。……そうしてくれている限り、私も、あなた達の生の美しさを、忘れませんから」
優しい瞳に見つめられて、それを見つめ返して……ナビスは笑う。
「はい。絶対に、忘れません。ずっと、あなたを想います。……優しい『死』よ」
……そうして。
「……消えちゃったねー」
「ええ……聖女モルテは、実体のない存在、なのかもしれませんね」
ナビスは、ミオと一緒に森からの帰りの馬車でぼんやりしていた。
あの後、聖女モルテは消えてしまったのだ。聖女モルテだけではなく、お付きの少女達も、城も、全て。
瞬きする内に忽然と姿を消してしまった聖女モルテのことを、ナビスとミオは探し回った。
だが、見つからなかった。見つからないような気がしていたので、然程、落胆はしなかった。『まあ、死だもんねえ』とミオは納得していたし、ナビスもなんとなく、こうなるような気はしていた。
「でも、とりあえず生きてる人を引きずり込むことはしないでくれるみたいだし、これで世界の終焉は遠ざかった……よね?」
「はい。そう思います。何せ、聖女モルテは自分自身が『聖女』だと認めてくれましたから」
……『死』と『聖女』。聖女モルテが持ち合わせていたこの2つの属性は、それぞれに人を救うものでありながら、多少、方向性が違う。彼女が『死』でありながらも『聖女』であった以上、やはり、彼女は人が生きる活力を与えるという側面を持ち合わせていたのだ。
言ってしまえば、『メメント・モリ』なのかもしれない。死が聖女になるということは、きっと、そういうことなのだ。
……そしてナビスは、ふと、考える。
聖女モルテは、消える直前にそっと言い残していったのだ。
『トゥリシアは確かに、私によって救われました。しかし、彼女を『死』へと導いたのは、私自身ではない』と。
つまり、聖女モルテ以外の者が、トゥリシアを殺した、ということになる、のだろうか。
……そして。
「ナビスにさー、『自らの運命の歯車を動かしたくなければ、王に近づかないことです』って、言ってたよね」
「……ええ。『しかし、それを乗り越えていくつもりなら、私はあなたを止めません』とも」
何よりも気になるのは、そう、言い残された言葉だった。王に近づくと、ナビスの運命が動く、らしいが……。
「……ナビスがうっかり王様に見初められて……とかになっちゃうってかんじ?」
「え、えええええ!?い、いや、まさか!今の王は既にご高齢ですし……」
「いやいやいや、スケベ親父はいくつになったってきっとスケベだよ!許さん!うちのナビスは絶対にスケベ親父なんかにやらないんだから!」
「み、ミオ様ぁ!不敬です!不敬罪に問われてしまいますよ!」
……どういうことかは分からないが、ひとまず、王都カステルミアへは近づかないでおこうかしら、と思うナビスなのだった。
馬車はやがて、街道に出た。レギナとメルカッタを結ぶ街道である。このままレギナへ向かって、マルガリートとパディエーラに諸々を報告していくつもりだ。尤も、今日の所は宿を取って休んで、明日の朝、報告に行くことになるだろうが。
そんな具合に、予定を頭の中で立てていたナビスだったが。
「……ところでさー、ナビス」
「はい、なんでしょう」
ふと、ミオから声を掛けられて、首を傾げつつ尋ね返す。するとミオは、少々躊躇いがちに、問うてきた。
「モルテ、は死を意味するんだよね?なら……えーと、ナビス、は何か、意味があるのかなー、って……」
『ナビス』の意味。
それを問われて、ナビスはきょとん、として……それから、ああ、ミオは知らないのだったな、と思い出して笑う。
「船、です。『ナビス』は、船という意味なのです」
「ふ、船ぇ?船なの?ナビス、船なの?」
ミオにとっては、なんとも不思議な意味に思えたらしい。だが、ナビスにとってこの名は、ちゃんと意味のある……自分を示すための言葉なのだ。
「皆を乗せて、海を渡っていけるように。荒波から皆を守れるように。だから私は、『船』なのです」
ポルタナは海に面した村だ。ナビスも生まれた時からずっと、ポルタナの青い海と共に生きてきた。
……それと同時に、この海にも呑まれないような、立派な聖女になりたいとも思っていた。人々を導き、どこへでも連れていけるような、そんな聖女になりたい、と。
だから自分は、『船』なのだ。『船』でありたい。ナビスは、そう思う。
「そっかー……うん。船、かあ。確かにナビスには、海が似合うもんなあ。うん、そっか、船、かあ……」
ミオはそう笑って、それからふと、じんわりと嬉しそうに、言った。
「実はね、私も。『ミオ』っていうのは、意味がある言葉でね」
「え?」
ナビスは驚く。『ミオ』という名について、ナビスはずっと、聞きなれない美しい響きの言葉だと思っていた。ミオを示すのにぴったりだと。
だが、まさか、それに意味があるとは。
……しかも。
「うん。えーとね、『ミオ』っていうのは、水の上の道のことなんだ」
まさか、そんな……『船』に関係するような意味だとは。
「川でも池でも海でも、まあ、航路のことを『ミオ』っていうみたいなんだよね。船が座礁しないように、目印として立てとくやつのことも『ミオ』っていうし……」
どこか胸が高鳴るような心地で、ナビスはミオを見つめる。すると、ミオはナビスの視線に気づいて苦笑した。
「……実はね、私、あんまり、私の名前が好きじゃなかったんだ」
「そ、そうなのですか?」
ミオは、どうやら自分の名前を気に入っていないらしい。ナビスがそれを少々残念に思っていると、ミオは、遠い目をした。
「だって、『海とか川とかに立てとくやつ』て、人の名前としてどうなの、って思うし」
「そ、それは……」
まあ、そうかもしれない。……人に付ける名前として、それはどうなのかしら、と、確かに多少、思う。
それに、ミオ自身が気に入っていないのなら、ナビスはそれを受け入れるまでだ。ナビスの気持ちを、ミオに押し付けるわけには……。
「でも……ナビスが『船』なんだったら、私、『水の上の道』でよかったな、って思って」
……だがミオは、そんなことを言うのだ。
「ちょっぴり運命感じちゃうなー。へへへ」
ナビスは、また自分が高揚してきたことを悟る。喜びに、頬が熱くなる。
ミオが、ナビスと同じように考えてくれたことを、嬉しく、嬉しく思うのだ。
「ってことで、『船』に『航路』な私達なわけだし、今後ともよろしくね、ナビス!」
「はい、ミオ様!」
……運命、と言われると、どうも、仰々しいような気がする。だが、こんな『運命』なら、悪くない。大歓迎だ。
「……あの、ミオ様」
「うん?」
「今晩はレギナで宿をとることになると思うのですが……」
「うん。そーだね。レギナに着いたらとりあえず宿を確保して、ご飯食べて……」
ミオが、『何食べよっか』と楽し気に考え出したのを見ながら……ナビスは、勇気を出して、言ってみた。
「……そ、その!今晩も、月と太陽の祭典の時のように、一緒のベッドで眠るのはいかがでしょうか!」
ナビスの提案に、ミオは、きょとん、として……それから、にまー、と満面の笑みを浮かべた。
「勿論!わーい!じゃあ今日はちょっと夜更かししちゃおう!ベッドでさ、うつ伏せになってさ、それで色々とお話し、しよ!」
「はい!是非!」
……死と向き合った夜には、他者のぬくもりを感じられる布団の中で語り合うのも悪くないだろう。
生きていることを思い出して、そこにぬくもりとささやかな喜びを感じられれば、また明日からも元気に生きていけるはずだから。
……そう。元気に、生きていける。
ナビスは、ミオが隣にいてくれれば、随分と元気に居られるらしかった。
ナビスは聖女で、人々を導く者だが……ミオは『航路』で、『船』を導いてくれる者、なのかもしれない。その名の通り。
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