メメント・モリ*5
ナビスの言葉と、今の聖女モルテの表情を見て、澪は納得した。
成程。救えないわけである。
既に死んでいるもの……否、『死』自身を『生』に繋ぎ止めて救うことなど、できようはずもない。
「私は『死』。人々に平等を齎すもの」
「成程なあー……そっかあー……」
どこか拍子抜けしたような、納得のような、それでいて諦念にも似た思いが澪の中に満ちていく。
「そりゃあ……生きていることに喜びなんて見出されても、困るよね、あなたが『死』だっていうんなら……」
澪がそう言えば、聖女モルテは静かに微笑んだ。
「ええ。私は誰よりも、『死』が救いであることを知っています。そして、『生』が如何に、理不尽なものかも」
聖女モルテの微笑みは、木漏れ日の下でもどこか月を思わせる。月光が滲んだ夜空にも似た紫水晶の瞳が、ふと伏せられて……そっと、草の間の石板へと向けられた。
「かつて……『死』となる前の私達は、そこに眠っています」
聖女モルテは、そっと、話し始める。澪とナビスは、ただ彼女の話を聞きながら、風が冬の下草を揺らしていく音に寂寥感を覚えていた。
「ここにはかつて、城がありました。そしてそこには、幽閉された姫君が居た」
まるで御伽噺を語るかのような口調だったが、それがしっくりとくる。他人事めいた言葉こそが、『死』である今の彼女には相応しいのかもしれない。
「その姫君は、生きているだけで災禍の種となったのです。……彼女は当時の王の、落とし種。幼い頃は城で育てられていましたが、日々の暮らしは辛いものでした。姫君は、『下女の子』と嘲られ、実の父には腫物のように扱われ……そして、姫君を利用して、王権の転覆を謀ろうとする者達に媚び諂われて」
どろどろとした王室の話を聞いていると、やはり、どこか物語めいて聞こえる。澪には、あまりにも遠い世界の話だ。
「そうして、遂に、姫君は祭り上げられることになりました。……王権打破のために、担ぎ上げられてしまった。そこで王は、下女の子に次の王権を争われてはたまらないと判断し……自らの娘である姫君を、この森の城へ、幽閉しました」
ふっ、と、聖女モルテの影が伸びて、そこから、ぬっ、と城が聳える。……礼拝式で使われていた会場だ。
どうやら、礼拝式の会場は、当時存在していた城を元にしたもの……であるようだ。これが幻術なのかどうなのかは、澪にはよく分からなかったが。
「幽閉された姫君の扱いは、酷いものでした。食べ物も碌に与えられず、冬は海の底のように冷えて……姫君らしからぬ暮らしを強いられ、それでも、姫君はただ、そんな日々を生きるしかなかった」
ふ、と、聖女モルテの表情に憎しみめいたものが過ぎる。それは、彼女が『生』に苦しめられたからなのだろう。
「そうして、次の王には正妻の子が選ばれました。それが、今の王の父親にあたります」
今の王……というと、確か、高齢だと聞いた覚えがある。息子が行方不明で、それ故に次の王を決めあぐねているのだとか、それ故に兄の孫であるトゥリシアがあのような事件を起こしたのだとか、まあ、そういう事件の中心であったはず。
……高齢の王の更に父、となると、大分昔のことだろう。ひいお爺ちゃん世代だ。この世界の人間ではない澪にとっては当然、そしてこの世界のナビスにとっても、随分と遠い話である。
だが、遠い話だと切り捨てられない。何せ、目の前にはその時の当事者……聖女モルテが居るのだから。
「そして、王子は王になった時、自分には腹違いの妹が居るということを知った。……そして彼は、その腹違いの妹を、恐れました。王権を揺るがしかねないとして、ついに、幽閉された姫君を排除することを決めたのです」
「それは……」
ナビスが絶句する前で、聖女モルテは寂し気に微笑んだ。
「冬の日でした。その日、城は、王の兵士達によって取り囲まれ……そして、姫君はすぐ、外に出ました」
空を仰いで、聖女モルテは尚、微笑みを湛えていた。
両腕を広げ、空から降り注ぐ光を……或いは、当時の冬の冷たさを、受け止めるかのように。
「外へ出れば殺されることは分かっていました。けれど……」
「死ねば終わるから。死が救ってくれると、彼女は、そう思ったから。……そう?」
澪が尋ねると、聖女モルテは微笑んで、確かに頷いた。
「そう。死は、救いでした。理不尽の渦中でもがき苦しむ生よりも、死は、ずっと確かな救いであった」
聖女モルテは、目を閉じて、祈るように言った。
「疲れ切った姫君は、そうして『死』に救われたのです」
「私は、そうして『生』に苦しみ、『生』を憎み、『死』を迎え、『死』に救われた者達の祈りが集まり、形を成したもの。最も強く死を想った姫君に近しい姿をしています」
聖女モルテはそう言って、両腕を広げて見せてくれた。成程、姫君としておかしくない高貴な美しさを持っている訳である。
「そして、この子達は皆、死んだ者達。……共に『死』の中にある彼女らもまた、こうして姿を貸してくれています」
聖女モルテの陰が伸び上がって、そこから手伝いの少女達の姿が生まれる。どうやら、彼女達も死んだ者の姿を借りたもの、であるらしい。つまり、彼女らもまた、『死』の一部ということなのだろう。
「えーと、じゃあ、この会場は?」
「当時の城です。城もまた、滅びたことでこうして『死』の中に眠っていますから」
「えっ!?つまり城の幽霊!?そんなのいるの!?」
どういうこと!?と澪は混乱するが、その城の幽霊とやらの中に澪も入ったことがある訳である。今、目の前にあるのもその城の幽霊であるらしいので、『どんなだ!?』はそれが答えなのだが、それにしても、余計に訳は分からない。
「……それで、あなたは死に救われた者の意識を持った『死』である、と。そういうことですか?聖女モルテ」
「ええ。そういうことになるのかもしれませんね」
ナビスの言葉に、聖女モルテは笑う。
「死に救われたからこそ、私達は『死』を信じる。この世界のあらゆる理不尽を味わい、死に救われた者達の意識の集合が、『聖女モルテ』なのです。だから……」
笑って……それでいて、どこか悲しそうに、聖女モルテは、言うのだ。
「だから、この世界は終焉を迎えるべきだと、そう、分かっているのです」
「世界の終焉を望む。……それは、あなた達にとって、そんなにおかしなことかしら?」
「理解はできるよ。まあ、完全には、賛同できないけれど……」
全てをゼロに戻す、というのは、現状がマイナスである全ての人にとって魅力ある文句であろう。
そう。実に、納得のいく話だ。
死んだ者の記憶を持つ『死』が、生きている者達を死へと導いているのだから。そういうことであるならば、諸々が納得できた。
聖女モルテの動機も、そこへ至る心情も、全てが、納得できた。
「お分かりかしら。私の信仰が、死への憧憬が。死によって多くの人を救いたいと願う、この祈りが」
紫水晶の瞳を見つめ返せば、まるでそれは深淵を覗き込むようだった。澪は、そこにある種の真実を悟る。
生が彼女を救えないことを。どう足掻いても、きっと聖女モルテの心は変わらず、世界の終焉を望み続けるのだろうということを。
そして、その信仰が、確かに彼女を……『死』自身を、救っているのだということを。
ふと、ナビスが進み出た。困惑しながらも、確かに、『聖女』らしい表情で。
「聖女モルテ。あなたに、人々は、救われるのですね?」
「……ええ。私は、万人を救う者。死は、全ての者にとっての終わりであり、安寧であるのです」
「ならば、お母様は……聖女アンケリーナは、あなたに救われたのですね?」
澪は、初めて聞く名を胸の内で繰り返す。
『聖女アンケリーナ』。それが、ナビスの母である、という。
……ナビスの母については、ポルタナの先代の聖女であった、ということをなんとなく、聞いている。そして、魔物の群れを討伐しようとして、そこで、命を落とした、とも。
ナビスは今、その名を口にして、聖女モルテを……『死』を、じっと見つめていた。
「ええ。確かに。……覚えています。彼女もまた、生に苦しめられた人だった」
そして、聖女モルテの表情が、ふと、寂し気に和らいだ。
「でも、彼女は私の手の届かないところに居るようですね。……彼女は、死に救われた者でありながら、万人の死を、世界の終焉を望みは、していなかったようですから」
どうやら、影から伸び上がる少女達のようには、その聖女アンケリーナの形を借りることができないらしい。形を借りられるものは、世界の終焉を望んだ人だけに限るのだろう。
そこで、聖女モルテは、じっと、問うようにナビスを見つめる。
「聖女ナビス。あなたには、生きる苦しみが……生の理不尽が、続いていくことでしょう。それこそ……ここに眠る者達のように」
「はい。喜びと同じくらい、苦しみもあることは覚悟の上です」
一方のナビスの表情は、凪いだ海のように落ち着いていた。
「それでも、あなたも聖女アンケリーナと同じように、死を、救いを、望まないと?教義には、賛同できないと?」
「……いずれは死に救われるのだと、そう、安堵しています。でも、まだ、その時ではないとも、思っているのです」
ナビスの手が、聖女モルテの手へと伸び、きゅ、と握った。
「私はまだ、頑張れます。頑張りたい。生きていたい。大好きなもののために」
聖女モルテは握られた手を、自らを見つめるナビスの瞳を見つめて、困惑していた。こんなものは知らない、とばかりに。
「……いずれあなたに救われるから、今、私は頑張れるのです。ありがとう、『死』よ。私達の、最後の希望となってくれて……お母様を救って下さって……」
ナビスの微笑みに、聖女モルテの目が、見開かれた。
見開かれた目から、一粒、涙が零れて落ちていく。
澪はそれを見て……少しばかり、安堵のような、救われたような気持ちを覚えた。
「よかった。あなたも、救われる道があって」
「……私が?」
聖女モルテは、理解できない、というような顔をする。虚を突かれたような顔は、『死』ではなく、年相応の姫君のそれに見えた。
「私は、『死』。死自身。私は万人を救う者であり、救われるものではない」
「うん。そうそう。それで私、どうやったらあなたを救えるか、考えてたんだけどね」
「私を?救う?……なんと傲慢な」
聖女モルテが目を細めたのに苦笑しつつ、澪は、どう説明するかなあ、と悩む。
「まあそうだよねえ。生きてる者が『死』を救うっていうのは、まあ、傲慢だっていう自覚はあるよ。あなたは私達に救われたくもないだろうしなあ、とも思ってた。でも……まあ、あなたは、自分で自分を救えたみたいだから。だから、よかったなあ、って、私、思ってる」
困惑する様子の聖女モルテに、澪は、笑いかける。不遜かなあ、とも思いつつ、それでも、少し不謹慎なくらいに明るい笑顔で。
「救うことで救われることって、あるじゃん?」
救うことで救われる。それは、澪が自身の人生の中で、何度も感じてきたことだ。
「人間の脳って、そういう風にできてるらしいよ。誰かを助けた時に幸福感を得られるように、そういう風に私達はできているんだってさ」
いつだったか、そんなようなことを教えてもらったことがある。友達からだったか、先生からだったかは、もう覚えていないが。
人間は、利他的な行動をとることを幸福だと感じるようにできているらしい。だから、人が幸せになるためには、人を助ければよい。それが人間のあるべき姿であり、目指すべき姿なのではないか、と。
「だから、あなたは……その、信者を『死』っていう救いへ導くことで、信者を救って、それによってあなたもまた、救われてた、んじゃないかな、って」
聖女モルテは、未だ、理解が追い付かないような顔をしている。
この世界では『脳』の話をしても今一つよく分からないかもしれない。澪はイマイチそのあたりの事情が分からないが、世界も時代も違えば、腑分けの類が禁忌とされていることもあろう。ならば、『脳』の存在自体を知らないのかもしれない。
「要は、私達は誰かを救うことで、救われるようにできてるってこと。誰かを助けることに、幸せを感じられる生き物だ、ってこと。どうかな」
「それは……そんなことは」
「いや、でもやり甲斐はあったっしょ?」
困惑しながらも否定しかけた聖女モルテに、澪はずばりとそう言ってやる。
持ちうる能力を理解して、それを完璧に活用する。聖女モルテが礼拝式でやっていたことは、そういうことだ。
そこに何の感慨も無かったとは、思えない。……そして、自分が正しいと信じている道を貫くことに、何の達成感も得られなかったとも、思えないのだ。
「あなたを救うものがあるとするならば、やっぱり、それは信仰であって……同時に、人なんだと、私は思ってる」
「だってあなたは、『死』だけれど、『聖女』だから。だから、人を救う存在だし……人を救うことに幸福を感じられる存在なんだと、思う」