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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(78)

 其 七十八


 好きでもない酒を人に強いられて、水野は大方醒めたけれども、それでもまだ三分の酔いは残っている。一方、日方は好きな酒を一人で汲んで、なおも足りないと思うが、もう七分くらいの酔いが廻っている。ただでさえ酔いの廻っている二人は打ち解けやすく、ましてひとかたならぬ仲の旧友で、思いがけない再会となれば、笑顔で、

「ヤ」

「ヤ」

 の一声(ひとこえ)でもって()(くだ)け合って、

「あれから久しく会わなかったナァ」

「ほんとに長いこと会わなかったナ」

「ウン、俺が候補生になった時祝ってくれた会で会った()りだったナァ」

「アァそうだった。早いもので大分過去(まえ)になった」

 と互いに懐かしげに凝然(じっ)と顔を見合わせていたが、水野の目には日方が肥えて肉付きもますます男児(おとこ)らしく立派になっているのが羨ましくもまた好ましくも見え、日方の目には水野が痩せて(やつ)れて、往時(むかし)の生き生きとした気合いが失せているのを、情けなくもまた口惜(くちお)しくも見えた。

「日方! 久しぶりと言っても、僅か見ない中に、君はまぁ実に立派な好い身体(からだ)になったナァ」

「俺はそんなに言われるほどでもないが、水野、貴様はまたえらく痩せ(から)びて歳を取ったナァ」

 主人(あるじ)も客も共に一種の言い難い思いに打たれたが、日方は腕を長く伸ばして、水野の手を()り、

「この骨っぽい痩せ切った此手(これ)が、かつて相撲をとった時、こ(っぴど)く俺を投げ付けたこともある腕力(ちから)のあった手なのか。この様子では今では俺に(かな)うどころではあるまい」

 と言えば、言われた水野は溜息を大きく()いて、

「アァ、今じゃぁひとたまりもなく負かされてしまおう。これほど衰えているとは自分でも思わなかったが、君のがっしりとした手とこう比べては(はず)かしいような気持ちがして、もの悲しくって淋しい感じがする」

 と、隠すところもなく思うままを口にした。

 お濱は小娘の乏しい智慧ではあるが、心ばかりの饗応(もてなし)に、お鍋と相談して、干魚(ひざかな)を焼いて裂いたものと漬物とを酒の下物(さかな)にと考え、持って来て帰って行ったが、日方はそれにも気づかない様子で、

「そうだろう、きっとそういう感じがしよう。往時(むかし)(ちが)っているのは俺だけではない。貴様は羽勝にもまだ会っていないだろうが、(あれ)も鉄のような男児(おとこ)に自分を鍛え上げて、考え方にも物言いにも身体つきにも弛緩(だら)けたところのない、確固漢(しっかりもの)になって来たぞ。(もと)から一風(いっぷう)それらしいところのある男だったが、ますます実が入って物になった。今に見ろ、何かやり始めて、生命(いのち)さえありゃぁきっとやり遂げるわ。島木が金を出して船を買って、遠洋漁業をやるとか何とか言っているから、いずれにせよ着々と歩みを進めているはずだ。今日も実は島木の所で羽勝と俺と、三人落ち合って此家(ここ)に来るはずだったが、羽勝に差し支えがあって断って来たので、島木は行かないというし、仕方がないから俺一人で出て来たのだが……、水野ッ! 久しぶりに会って顔を見るなり面白くないことを言い出すようだけれども、猿が物を含んで溜めているように、思ったことを口の内にまごつかせてはいられない俺だ。貴様の(しゅん)(かん)(*1)くさい血の気の足らんその面を見、狗骨樹(ひいらぎ)の皮を剥いたように痩せっこけ切ったこんな手を見ては、言わずにはいられん、我慢が出来ん、貴様のために言い出さずにはいられん。厭でも応でも聞いてもらわねばならん。日方は貴様に(にが)いことを言うためにわざわざ此家(ここ)へ来たのだ。さぁ、確乎(しっかり)()く聞いてくれ水野!」

 と、有無を言わせぬ烈しい口調で説き出した。



 *1 (しゅん)(かん)……平安末期の真言宗の僧。鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘で平氏打倒計画を企てるが、密告され鬼界ヶ島へ流島となった。その後、俊寛はすべてに絶望し、断食をして37才の若さで亡くなったと言われている。


つづく

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