幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(157)
其 百五十七
「ハハハ、そりゃぁそうだろうが、慾は慾として置いて、若い時でなくっちゃぁ面白く行かないことは若い時にして置くさ。年齢が買って戻せるものなら、私なんざぁ一年を二万円や三万円は出しても買う気があるけれどもナァ、そうはいかないものだから、こればかりは仕方がない。何でも出来る時にして置くことだ、時が経ってしまっては追い付かないから」
「ハハハ、虫の好いことを仰ったものですネ。年齢が二万円や三万円で買えるものなら、小生だって買い置きをします。差し詰めこっちへ持って来て売りゃぁ十万円だと言ったって厭とはお言いなさいますまい。二、三万円なら買うなんて、戯談にも値切って買おうなんて酷うございますぜ、どうせ笑話なんですから、百万円とでも言っておやんなさいナ。ハハハ」
大きい顔をしても、何かに付けて出し惜しみをするのが通癖になっている有財人の気風を、暗に当て付けて島木が罵ったこの二人の問答の中、お彤はお富に対って何事かを言ったが、声が小さく後先は聞こえず、ただ、そんなに気を遣わなくちゃいけない方じゃぁないのだから、と言ったのだけは耳に入った。
気を遣わなくても可い客とは自分のことである。親しまれたのか、あるいは侮られたのか。気を遣わなくても可いというのはこちらから言うべきことなのに、向こうの口からそう言われるのを聞いては、何となくあまり好い気持ちがしない。しかしそれは、自分に詰まらない高慢な気持ちがあるからだろう。この詰まらない高慢な心のため、何度も好運を捉え損なったことは、つくづく身に沁みている。今回、そもそも筑波の力を借りて事をなそうとするのも、自分にはまだ世の中を飛び回るほど丈夫な羽翼が生え揃いもしない身であるからである。それ故、虫の好き嫌いなどを言うのは愚かな贅沢だと思い定めているけれど、今、何となく気に入らず聞こえたのを自然と耳が聞き咎めたのである。それとは関わりなく、向こうではまたこちらの話を一々聞いていてか、お彤は笑みをつくってこちらを見ながら、
「そうですとも! 百万円でも千万円でも高くはありますまいもの。ですがネェ、私なら買うにはきっと買いますけれども、払う貨幣にちょいとした好みがしとうございますネ」と言う。
「ヘーェ。もらう金に好みっていうのは聞いたことがありますが、払う金に好みって言うのは?」
「まぁ、当ててご覧なさい! 銅貨でなし、銀貨でなし、金貨でなし、もちろん一円紙幣でなし」
「ハテネ、五円紙幣をお嫌いなさるので、それで払おうと仰るの?」
「ホホホ、イイエ」
「じゃぁ十円紙幣?」
「百円紙幣?」
「イイエ」
「ハテネェ」
「分かりませんか。ホホ、言いましょうか、もう」
「エェ、言ってくださいまし、分かりませんから、何の貨幣でお支払いなさるの?」
「あの、玩弄の紙幣でもって!」
最初から真実に売りも買いもしないものについての談話なので、罪もない一場の笑いに陥されても何のことはないけれど、思いがけず翻弄されて、島木は胴斬りにされたような思いがして、ヤ、此女、なるほど白蝙蝠だなと腹の中で伊東の言葉を思い出しながら、
「ハハハ、こりゃぁ悉皆やられました。降参しました」
と笑えば、筑波は援軍に凱歌を挙げてもらったような気持ちがするとまでは言わないが、快げに笑って、
「馬鹿なことを言ったものだ! ハハハ、下らない!」
と、却って島木へ愛想をするようにお彤を叱ったのも面白い。
「だって、貴方等は若くなったらそれぞれに色んなことをしようという好きな望みがお有んなさるでしょうが、私なんぞは婦女ですもの、老婆が今更若くなってみたところで、どうもしようはありゃぁしませんから、年齢が買えるものにしたところで真実にはまぁ、沢山ぁ出せないじゃありませんか。ホホホ」
「ハハハ。ヤ、しかし何が何でも、つまりお若いからそんなに気が強くっておいでなのでしょうが、どうです、お廉くして差し上げますから、何年分かお買い取りになって、いっそ復桃割れにでもお結いになるというのは」
「宣うござんすネェ! どんなに嬉しいことでしょう。お富、沢山獻げておくれよ、荷が着きさえすりゃぁ一番に報知をして、柄の好いところを選ばせて下さろうというご親切なお約束をして下さったのだから。ホホホ」
と互いに戯れてものを言う中にも位を取って譲らないのは、あくまで自分の男を尊くするための心配りだと思えた。
筑波に仕えるのに、この女が目の前の相手を抑えようとするのは当然であるのだろう。今の我が身は、自分の頭を抑えられても口惜しくはないのだと胸を広くすれば、お彤の才気の中に、侮りがたいが却って愛すべきものを覚えた。こうやって、島木が話せば、お彤も話し、そして筑波の偉そうな談も交えて、三人で笑い興じていると、次の室に人の気勢がした。通い口に立っている屏風の蔭からふと顔が見えたようである。お彤は早くもそちらを見やって、
「宜いからここへおいでなさい」
と、自分の座る傍らを指しながら、優しく言葉を掛けた。
「ン、お龍か、お前に酌をしてもらおうと思って先刻から待っていたぞ。ここへ来い。ン、羞かしがる奴があるか、ハハハ。サァ、マァお客様のお酌をしないかい」
筑波はその盤台面を崩せるだけ笑いに崩して、機嫌好く横柄に命令けた。
現れたこの婦人はそもそも何者で、どのように挨拶して宜いものか、と島木はちらりとそちらを見た。
(了)
「天うつ浪」は今回で終了しました。
前篇~後篇にわたり、長らくご愛読いただき、ありがとうございました。
いつもと変わらぬ、下手な現代語(勝手)訳で、だらだらとした長い文章があるかと思えば、急に短い文章が挟まっていたりして、読みにくかったのではと想像しています。
私の下手な現代語訳に、泉下の露伴先生もさぞ苦虫を噛みつぶしておられることでしょうが、読者の皆さまに併走していただきながらゴールまで到達できたことに、私自身はホッとすると同時に、ささやかながら達成感を覚えています。
素人の悲しさ故、誤訳、意味の取り違えがあったやも知れません。お気づきの点がありましたら、ご教示いただければ幸いです。
さて、この「天うつ浪」は「其 百五十七」でぷっつり中断しています。
島木がお龍と対面する場面から、話はどのように展開していくのか、興味のあるところですが、続きが読めず残念です。
露伴がかつて「其 百」の際に述べたような、中断に終わった理由、心情を述べた文があるのではないかと探してみたのですが、私の探し方が悪いのか、どこにも見当たりませんでした。(何のステイトメントもなく、中座のままにしておくことは考えにくいと思うのですが)
さて、この物語はその後どうなる予定だったのか。もちろん原文がない以上、はっきりは言えませんが、大分後になってから、実際に露伴から腹案を聞いたという柳田泉氏によれば、次のように展開する予定だったといいます。
〇 お彤は水野をお龍の夫とすることがお龍の幸福になると考え、その思いを遂げさせてやろうとする。
(最初は水野ではなく、島木をその相手に考えたと思われる……筆者)
〇 お彤は色んな策を講じて水野の気持ちをお龍に引きつけようとする。
〇 しかし、水野はお龍のこれまでのことに同情はするが、気持ちを与えかねている。
〇 お彤の細工と知らずにお龍の身近に接近するが、フトしたことでお龍のために殺人の罪を犯すことになる。
〇 水野は刑に服する気持ちはあるが、長年の志である詩編がまだ出来ていない。何としても一編の詩を創っておきたいという気持ちを抑えられない。
〇 そのため、水野は逃げるだけ逃げるが、逃げおおせられないとなった時、ちょうど羽勝が船長である船に身を隠すことが出来、国外へ出る。
〇 しかし、船は洋上で暴風雨に遭い難破し、乗組員一行は「パルハム・リーフ」という無人島に漂着する。
〇 水野と乗組員の生活は原始的なものとなり、文明社会と遮断されたものとなる。
〇 いわゆる「裸の生活」を続けるうちに、衣服に包まれた生活が却って不自然で虚偽的なものに見えてくる。そして、それに包まれた文明流の人間生活を種々に批評できることに気づく。それは実に壮大な文明批評である
〇 こういう生活に慣れて行くにつれて、水野の詩想が熟し、天うつ浪の大海を背景にして一編の大詩篇が完成する。
〇 大海が縁となって生まれたものだけに、この人間批評の詩を「天うつ浪」と名付けることになった。
以上は、柳田泉氏による
①「随筆 明治文学3」の『「風流微塵蔵」と「天うつ浪」について』
②「明治文学全集25 幸田露伴集」における『解題』
から、私がまとめてみたものです。
こうしてみると、中断場面ではまだまだ話の端緒であり、先まで行くには相当長丁場になるものと推測できます。露伴がなぜこの段階で筆を折ったのか、詳しいことが分からないので、私には何とも言えません。
塩谷賛氏は次のように述べています。
「どうして筆を棄てたかということを考える。筋の進行上の難易をいえばむしろ易に属する個所で、むずかしいことになったからやめたのでは絶対にない。郡司大尉事件(郡司大尉は郡司成忠で露伴の兄。事件の詳細は略す……筆者)のその後の事態も大いに関係がありそうだが、要するに興が尽きたのである。事件のなりゆきと執筆中止とはすぐにはつながらないように思う。興が尽きたことは「風流微塵蔵」に於いてもある。戦争が起こり大病もあり、その結果空想を書き続けることがいやになったが、まだしばらくは続けてついにやめた。その原因は小説を書くことに対する疑問である。興が尽きるときには一方でそういう疑問が起こるのであろう。「天うつ浪」のあと、短編小説は随分後まで書き続けるが長編小説はこれでやめることになった」
――「幸田露伴 上」(中央公論社) 『天うつ浪』P.435-436 )
この「天うつ浪」の小説としての評価はあまり良くないようです。
井田 卓氏などは「天うつ浪」は失敗作である、と断言しています。曰く『今日この作品を読む作業は苦痛をもたらすし、書かれた当時の状況ともかけはなれ、特に知的内容においては薄手であり、時代を具体的に知るために読んだとしても役立たない』と手厳しい。(『「天うつ浪」ノート』 水上英廣編「ニーチェとその周辺」朝日出版社 P.520)
また、塩谷賛氏も岩波文庫の「解説」の中で『私は「天うつ浪」を、露伴の代表作と見るのには躊躇する』と述べ、『「天うつ浪」のあと十年間の書かれなかった時期の研究が、露伴晩年の小説を知るのに必要であるように、この小説の偉大な失敗は記念されなくてはならない』と書いています。(「天うつ浪 後篇」岩波文庫 P.271)
私のような素人には、しかし、この「天うつ浪」という小説は文学的な価値はどうあれ、読み進めていて面白いと感じました。さまざまな人物が登場して、それが色んな思惑を持ちながらお互い関わっていくその姿に興味を持ちました。残念ながら話は本題に入る前に中断してしまったのですが、それでも井田氏の言うように『今日読んでも人を楽しませる要素に富んだものではない、生硬なものである』(上掲書P.522)という風にはとても思えませんでした。
これは私が勝手訳を行ったことによる手前味噌なのかも知れませんが、この小説は露伴の他の小説よりも読みやすく「結構面白い」と感じています。
読者の皆さまはどのような感想をお持ちになったでしょうか。
できれば原文をお読みになって、私の中途半端な現代語訳より、露伴の生の文章に触れていただければ、面白味も倍増するのではないかと思いますので、是非。




