幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(156)
其 百五十六
色気と言えば……と筑波が言う、暗に指したその人は、若くて婀娜な女であろうことは難なく想像できたけれど、すでにここにお彤がいる以上、筑波の妾であるはずはなく、また、単なる下女を指しているような口振りでもなかったので、そうでもあるまい。たまたまどこかから来て居合わせた、此家の主人の身寄りなどか、と島木が考えている時、筑波は杯を挙げて島木の先ほどの言い分に合わすように、
「マ、色気でも何でも若い中に沢山経験しておくことだナ。精々君くらいの年齢の中だテ、何をしても面白いことがあるのは。もう私のようになってしまっちゃぁ、どこへ行っても老人行儀というのを自分でもしなくちゃぁならないような気もするし、他人もさせるからナァ」
と話し掛ければ、
「ヘーェ、老人行儀と言いますと?」
と問い返す。
「ソレ、よく絵本や何かに、座蒲団の上に端然と座って、大黒頭巾なんぞ被って穏順しく莞爾している老人があるじゃぁないか。ああいったように何でも、老人は穏順しく上品に構えていなくちゃぁならないというのが世間一般の定則で、私が老人行儀というのはあの態度のことだがネ、どうもああしていなけりゃぁならないというなぁ難儀な話じゃぁないか。幾歳になったって変わりはないもの、稀にゃぁ大胡座で河豚鍋を突っつくという風なこともやりたいと思ってもナ、こうなって来ると……」
と、ちょっと兀た自分の頭を指しながら、
「まるで人が戯談にしてしまって、信に受けやしない。それを今言った調子で言うと、老人の冷や水だなんて言われるからこっちでも萎縮てしまって、仕方なしにやっぱり大黒頭巾を厭々ながら被せられて、膝に手を置いて穏順しくしている訳になるのだ。ハハハ、だから真実に色気を出して女に惚れたなんて言ったって、頭で相手にされやしないで、何でもかでも大黒頭巾を被せられて老人行儀をさせられてしまうわネ。ハハハ、何でも若い中のことだテ、口惜しいけれども敵わないからナ」
その言うところの辻褄は合うけれども、単に上品ぶってさっぱりと言って退けただけの虚言で、若いことをいいように言う裏には、自分の品行を良いと言って、自分を好いように見せる気持ちが含まれていると言えそうである。千金万金が擲たれた、世に知られた待合の奥座敷で、欲しいままに所行をする者は、人生の春である青春時代にだけ盛んとなる多くの若い者とは違い、大抵は雀百まで躍り已まぬ好色の痴れ者。明日死ぬという今宵にも気に入った女なら受け出そうというような頑丈老人、無常の風の前にも容易に消えそうもない電気燈頭、鼠がどれだけ囓っても咬み切りかねるような針金を磨いたような白髪頭の手合いであるのを、知らないほど疎くはない島木なので、適当に聞き流して、
「なるほど、それじゃぁその積もりで今の内に精一杯経験しておきますかネ、慾気も色気も。しかしまぁ、小生などは差し当たっては、二つの内だったら慾の方を取りますネ。色気何ぞは前途へ預けておいて、沢山利息を溜めてから一時に手に取るようにしたいもので。ハハハハハハ」
と、戯れて答えているその時、此室に帰って来たお富はお彤に対って密かに何かを囁くのが聞こえた。
自分が饒舌っていたところなので、能く聞き取れなかったけれども、今ここに喚ばれたお龍とやらが、ここに来ることを嫌がって、自分の室から出ない、と言っているように島木には聞こえた。
つづく
次回で最終となります。




